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第17回

 綾乃の意識は朦朧としていた。


 頭が割れそうな激しい頭痛と明らかに幻覚と分かる幻影がちらつき、手足がしびれて身動きひとつとれない状態で暗闇の中をどこまでも落ちていくような感覚にとらわれたまま、意識は明と暗の間を行き来する。真夏だというのに寒気に体ががたがたと震え、頭痛からくる猛烈な嘔吐感に苦しめられた。


 途切れ途切れの記憶の中で、頭と背中に手をあてがわれ、青臭い、薬湯のようなものを飲まされたような気がした。直後、胃が激しくけいれんを起こし、こみ上げた吐き気に堪えられず、飲んだばかりの物を相手のひざに吐き散らす。


「……ごめ……」

「いいから全部出しちまえ。そのほうが早く楽になれる」


 脱力し、吐瀉物の上に倒れ込みそうになった彼女を支えた腕の持ち主の力強い言葉を、綾乃は信じた。胃を押さえてひくひくと体をけいれんさせる彼女の口元に水の入ったコップをあてがい、うがいをさせ、拭いて布団に戻す間も、声掛けをしてくれていた。ぶっきらぼうだが優しい声と手に安心する。

 視界の外にいるだれかに言って、受け取った物を使って後始末をしてくれている背中をぼんやりと眺めているうちに、うとうとと眠りに落ちた。


 意識が浮上してはまた浅い眠りにつく。そういったことを何度か繰り返し、ようやく頭の中がはっきりとして視界が揺れなくなったと思えるようになって、綾乃は身を起こした。

 直後、全身の関節という関節が一度にきしんで、思わず身を縮めたとき。


「まだ寝ていろ」


 声がして、そちらを見ると、隼人らしき人影が暗い中、壁に背を預けるようにして立っていた。

 初めて周りを見るゆとりができたことで知ったことだが、綾乃が寝かされていたのは座敷牢だった。数メートル先に格子で組まれた仕切りがあり、四方は壁に埋め込まれていて、身をかがめないと出入りできない戸口には大きな南京錠がかかっている。その向こうには明かりに照らされた通路があり、これが唯一の光源だ。当然不足していて、大部分で光が届かずうす暗い。また、綾乃が寝ている布団の敷かれた床は畳敷きだったが、壁はコンクリートがむき出しで、動かない空気は湿気を含んでいる。窓が一切ないことからかんがみて、地下かもしれない。


 身を起こしたまま無言でいる綾乃に、人影はため息を吐きだすとやおら壁から身を離して綾乃に近づいてきた。途中、光に照らされた場所を通る。やはり隼人だ。着ている服は違うが。

「……ごめん。それ、あたしのせいだね……」

 ぼんやりとした記憶で、自分が何をしたか思いだす。

「いいさ。それより、寝ないならこれを飲め」

 そう言って、枕元に置かれていたガラスの瓶からどろりとした液体をコップに注いで差し出された。ものすごく青臭い臭いがしてきて、顔がしかめっ面になる。

「何これ」

「濃厚野菜ジュース。今のおまえに必要なカリウムがたっぷりだ」

「……嫌がらせ、じゃないよね……?」

 病人に対してそんなことをする者ではないと知りつつも、つい言葉にしてしまうほど、それは臭いも見た目もひどい物だった。こんな物を流し込まれたら吐いても無理はない、と思う。


 一方で、それを聞いた隼人の眉が、前髪の下でぴくっと反応した。

「飲みたくなけりゃそれでもいいが、それだけ回復が遅れるぞ」

「……飲むよ」

 息を止めてほんのちょっぴり、舌を湿らせる程度に口にしたそれは、案の定、とんでもないマズさだった。味は考慮されておらず、とにかく効果がある物を片っ端からジューサーにかけました、というような、そんな味だった。とても人の飲む物とは思えない。

「…………っ……」

 脳天がしびれるような青臭い辛苦さに、声にならない声を発して奥歯でかみつぶす。

 そんな綾乃をニヤニヤ笑って見守り、そして彼女が吐き戻さないのを確認して、隼人は壁へ戻っていった。

「……今、いつ? あれからどのくらいたった?」

 ちびちびと、なめるように飲みながら訊く。

「1日と半分ってとこだな」

「1日半!? じゃあ祭りは――」

「夜明け前だ。時間は十分ある。だからさっさとそれを飲んでおとなしく寝ろ」

 びしっと指さし、親か先生のように言い渡してくる隼人に、綾乃は苦笑せずにいられなかった。


「はいはい、お母さん」

「ばっ……! だれが――」

「それで、見たとこあんたは無事だったんだね。いろいろ人間離れしてると思ってたけど、あの毒煙にも平気なんだ」

「……おまえほどじゃなかっただけだ」

 先までと違う、かすかな感情の沈み込みを声の調子から感じ取って、綾乃は飲むのをやめて顔を上げた。

 影の中にいてよく見えないが、沈黙から、彼が傷ついているのが感じ取れる。

 綾乃は、ふ、と笑い。

「ばーか。そこは意地でも肯定するとこだよ。こっちは頼りになるって感心してんのよ、頼りがいを見せなさいよ」

「……感心?」

「そうだよ。たとえば、その格子をぶっ壊してここから脱出できるとか」

 もちろんただの軽口だ。格子は年代物で老朽化が進み、黒ずんでいても、ゆうに5センチは厚みがある。

 それでも木製であるため、雷符があれば綾乃でも破壊できたが、どうやらここへ閉じ込められる際に持ち物は全部没収されてしまったようだった。

 素手でどうにかできるわけが――――


「まあ、できなくはないが」

「できるの!?」

 コンコンと格子をたたいて推し量りながら平然と言ってのけた言葉に、思わず叫んでしまった。

 その声に、隼人も驚く。

「大声を出すな! ひとが来るかもしれねえだろ」

「あ、ごめん」

「ったく。

 俺も考えなかったわけじゃないが、外の状況が分からないままやっていいのか、判断がつかねえ」

「……そっか」

 それだけじゃない、と綾乃は思った。

 自分がこんなことになっているから、連れて逃げるのは難しいと考えたに違いない。

 それを口にしない隼人の優しさに感謝しつつ、足を引っ張っている自身のふがいなさに内心歯がみする。


屋代やしろが手元にあればな……」

 隼人は隼人で、いつも持ち歩いていた試験管を――寝間着姿で拉致されたのだからしかたない面もあるが――置いてきてしまったことを後悔していた。


「お屋代? あー、あの白狐の。

 でも、使役魔なら主人のあんたが喚べば来るんじゃない?」

「あれの主人は俺じゃない」

「そうなの?」

「あれを使えば外の様子が分かるし、連絡も取れたんだが」

 きっと今ごろあの駄狐は、椅子の背にかけたズボンのポケットの屋代の中で、スヤスヤと幸せな惰眠をむさぼっているに違いない。隼人がこんな目にあっているとも知らずに。

 想像して、苦虫をかみつぶしたような顔になる。

 綾乃も上着の内ポケットを確認して、肩をすくめた。

「あたしも、別れ際にアレスタからこっそり受け取ってた端末、とられちゃったみたい」

 外と連絡がとれないというのは厄介だった。へたに動いて、外で動いている者たちの足を引っ張る結果になったらと思うと迂闊うかつに動けない。


「アレスタ、無事かな」

「無事だろ。でなかったらやつが俺たちを放置しておく理由がない。逃げたまま、何のアクションもないから手を打ちあぐねてるんだろう」



「まあ、そうだね」



 そんな声が突然聞こえて。

 苦笑しつつ、格子の向こうに久利が姿を現した。

「一体いつから……」

 と綾乃は驚くが、隼人は無表情だ。久利の気配に気付いていたのだろう。

 久利は綾乃の問いを無視して隼人と視線を合わせた。


「きみたちが起きててくれてよかった。

 実をいうと、きみたちを心配して、すぐ連絡が入ると思ったんだ。実際、彼女から回収した端末は鳴ったけど、俺が出たら無言で切られて。以来、何の反応もなし。

 松木たちに町で捜索させたけど、目撃情報もない。バスやタクシーを使って町から出た形跡もないなんて、おかしいよね。そんなに大きくない田舎町で、金髪の外人女性なんて目立つ存在が――実際彼女はとても美人だし――人目につかないで行動できるものかな?」

 久利は反応を見るように、小首をかしげて2人に交互に視線を向ける。

「それで、別の方向から探ってみることにしたんだ。

 きみたちの着ていた制服の学校に連絡をとってみたんだけど、アレスタ・クロウという英語教師はいないって返答だったよ。彼女が顧問をしているっていう部もなかった。まあ、驚きはしなかったけど。でも、きみたち3人の在籍確認はとれたよ。

 さて。これはどう解釈するべきなんだろう?」


「……分からないのか」

「分かってたら尋ねたりしないよ」久利は、くすっと笑い、笑顔のまま続けた。「それで、彼女と連絡を取るにはどうしたらいいか、教えてもらおうと思ったんだ。時間もないし」

「端末を返せ。彼女にかけさせれば応答するだろ」

「それはできない。あくまで俺が連絡をとる方法だよ」

 表情も声も温和で言葉もやわらかいが、視線にこもる意思は揺らがない。

 隼人は腰に手をやり、はーっと息を吐き出して身を引いた。


「そこまで分かってるなら、無駄だと思わねえのか? 俺たちはここの祭りを止めに来た。つまり、ここでおまえたちが何をしているか、もう外部のやつらに知られてんだ。アレスタはそいつらと合流した。だからおまえたちには見つけられねえ。

 俺たちの口をふさげばすむなんて段階じゃない。昔とは違うんだ」

「……そうかもしれないね。だけど、証拠は何もない。

 警察を送り込めばいいよ。言っとくけど、そういったことはこれまでにもあったんだ。だけど彼らには何も見つけられなかった。

 きみたちもそれを知っているから、直接ここへ乗り込んできたんでしょ」


 久利が目を伏せる。そして開いたとき。

 陰鬱な昏い目が、隼人と綾乃に息を呑ませる。


「いくら止めようとしても無駄だよ。祭りは絶対に行われなくてはならない。でないと、何のために絃葉が犠牲になったのか、意味がなくなってしまう。

 正直なことを言えば、佐藤さんの行方が分からなくなっていてね、もしかしてここに来てるんじゃないかと思ったりしたんだけど、違ったみたいだね」


「未来が!?」


 驚き、思わず立ち上がりかけたものの、直後めまいに襲われひざを崩した綾乃を見て、久利は自分の考えが正しいと確認する。

「あんなに乗り気だった彼女が急に姿を消すなんておかしい。もしかしたらきみの言うように外部の者がいて、連れ去ったのかもしれない」

 壁の隼人に向かってそう言うと、久利は綾乃に正面を向けた。


「だから、きみがいてくれて助かるよ。今、みんなで手分けして佐藤さんを探してるんだけど、もし見つからなかったら、きみを代理に立てることにする。

 ほんとは次に赤羽根の矢が立ったときを考えていたんだけど……早いか遅いかの違いだけだし。きみも神嫁になりたかったそうだし、いいよね」


 久利は、瞳は昏いまま、口元だけは穏やかにほほ笑み、「またあとで」と立ち去った。





「未来……いなくなった、って……どうして……」

 布団に倒れ込むように仰向けになって、力なく綾乃はつぶやく。

 外では何がどうなっているのか……。捜しに行きたいが、体が思うように動かない。会話だけでこんなに体力を使ってしまっている。


「くそッ……!」

 いら立ちをぶつけるように隼人が格子を殴りつける音が、むなしく響いた。


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