『綾乃ちゃんは、わたしは
そう言ったときの綾乃の顔を、何と表現したらいいだろう? 少し眉を寄せて眉間にしわをつくり、無言で未来を見つめていた。
あのときの会話をドア越しに聞かれていたのだと気付いたのは間違いない。けれど、怒りからの違うとの弁明も、開き直っての肯定もしなかった。
ただため息をついて、『それがあんたの目的?』と、確認をとるように訊いただけだった。
口を引き結んで答えない未来に『分かった。アレスタに伝えておく』と言い、背を向けた。そのまま立ち去る気だと思った瞬間引き止めたい衝動にかられて思わず手を伸ばしてしまったけれど、途中で思い直してその手を引き戻した。
神嫁になるための
あのとき。アレスタも綾乃も、未来にできると思っていないと悲しくなったけれど、いけないところは自分にもある。この心の弱さ、日ごろからの綾乃に対する依存心が、彼女たちにそう思わせてしまっていたのだ。
力には、その人間の
『人が持つ力なんてのはなあ、どいつもこいつもたいして変わらんのさ。1持つやつばかりの中でたまたま2持ったやつが誇ったところで、しょせん1しか変わんねえのよ。そこから何をどう上乗せするかが肝心要のなんとやらってやつさ。
昔のやつがふいてたぜ、「森羅万象、その
昔、たしか祖母の葬式の日だったと思う。来客の世話で忙しく立ち働く両親の邪魔にならないよう茶の間で1人おとなしくしていた幼い未来を見つけた玄水がどかりと座って、日本酒を瓶で飲みながら語った話の中で出た言葉だ。無精髭の生えたあごをざらりとなで上げ、酒臭い大きな手で頭をがしがしかき回す。にっかり笑った口元が印象的だった。
当時の玄水は、未来の覚えている限り、いつも酒を飲んで酔っぱらっていた。若いころから無類の酒好きで、ある日、友人と酒盛りをしていて家中の酒を飲んでしまい、最後には台所のみりんにまで手を出したとか、うそかまことか、そんな笑い話まで残っている。
つまりそれくらい大酒飲みということだ。『玄水』との通り名もそこから付いたのだろう。夏も冬も同じ麻の作務衣姿で、座布団を敷かず、裸足で片膝を立て、1滴1滴おいしそうにすする。そのくせ眼光鋭く、視線だけで他の者を黙らせるが、口にするのはもっぱら
用いた言葉の
基礎となる霊能力はだれしもが同じようなもので、そこから先は、森羅万象より借り受けるもの。それが力であり、それゆえに力には、その人間の
パートナーとして紹介され、初めて綾乃の放つ符術を見たとき。その混じりけない美しさに目を奪われた。そして、強く、激しい一撃でもって敵を打ちのめして消える、清々しいまでに鮮烈でありながらも「はい、終わり」と笑った綾乃の、あっさりとしたものであることに、まさに綾乃の本質そのものだと感じた。
この出会いが、未来の考えをさらに裏打ちした。そして、基礎力が同じなら、綾乃と自分――
(わたしに必要なのは、わたし1人でもやれるという自信なんだわ)
わたしにはできないと思われていたこの任務をきちんと遂行できたなら、きっとみんな、見直してくれる。そしてその自信によって、自分の中にある綾乃への依存心を消し去ることができれば、きっと
それだけの実力はあるんだから……。
滝行を終えて小屋への帰り道。木々の間が途切れて、ふとそこから現れた夕焼けの空の美しさに見とれて足を止める。
(1人だからって不安がってちゃだめ。1人でやり遂げることにこそ、意味があるのよ……)
そう、自分に言い聞かせていたときだった。
突然、人の手に背中を強く押された。
体が前傾する。
真下は崖だ。
それを見た未来の両目が恐怖に見開かれる。
「……やっ!」
必死に身をひねって、壁に手をついた。しかしつかめる岩や穴などはなく、ただ斜面をすべり落ちるしかない。
途中、生えていた木に突っ込み、枝葉に体を傷つけられながらも落ちた先に大きな岩の出っ張りがあり、そこでなんとからかを食い止めることができたが、もしこの出っ張りがなかったら、間違いなく死んでいただろう。
絃葉の死を思いだしてぞっとする。恐怖に体がすくみ、がたがたと震えて、手足に負った傷の痛みも感じられないほどだ。
どれほど落下したのか――見上げた先に、こちらをのぞき込む人の姿があった。
未来が顔を上げたのを見て、さっと身を引いたため、すぐに見えなくなる。日没が近いせいもあり、よく見えなかったが、体格から女性だというのは分かった。
「……まさか………………綾乃、ちゃん…………?」
未来は自分の目を疑う思いでつぶやいた。
◆◆◆
あれが綾乃であるはずがない。
崖の途中に座り込んでいるのを帰りが遅いことを心配して捜しに出ていた村の世話役の女性たちに発見されて事なきを得た未来は、月明かりだけが差し込む質素な小屋に敷かれた布団の中で仰向けになりながら、悶々と考えていた。
負った傷はすり傷ばかりで軽傷だったのが幸いだった。きちんと手当てされ、包帯を巻かれたおかげで痛みはほとんど感じられなくなっている。けれども、死ぬかも知れないと思った恐怖はまだ未来の中にしつこく根付いていた。
『一体どうしてこんなことに?』
手当てをしてくれた女性は、自殺を疑っているような口ぶりだった。
『ぼんやり歩いていて足を踏み外してしまったんです。わたしったらそそっかしくて……すみません』
そう、未来は答えた。
だれかに突き落とされたのだ、とは言えなかった。
村の人が、神嫁となる未来にそんなことをするはずがないからだ。
だとしたら、突き落とした者は限られる。
アレスタか、綾乃だ。
(2人がわたしにそんなことをしたなんて思いたくない。考えたくない……)
涙がにじんで、未来は手を両目にあてがう。
せっかくの計画を台なしにしたから怒っているのは分かる。もしかしたら、けがを負わせて、ついでに怖い思いもさせて、それであらためて綾乃と交代させようという考えだったのかもしれない。わざとあそこに引っかかるように意図して……。
でも、うまくいかなければ、死んでいたかもしれないのだ。
ほんの少し、突き飛ばす力が強かったら。落ちる位置が少しでもずれていれば。
(わたしがしたことは、そんなにも憎まれることだったの? 死んでもかまわないと思うほどに……)
自分は、2人からの信頼や友情を壊してしまった。
もう二度と修復できないほど、2人を失ってしまったのかもしれない。
それでもいい、1人で成し遂げてみせると思ったあのときの高揚感はとうに消えてなくなり、跡形もなく。ただただその怖い考えが頭から離れなかった。
翌日、気もそぞろに
「あの……、アレ――先生と、藤井さん、安倍くんは、どうしていますか?」
「ああ。あの方々でしたら、もうお帰りになったそうです」
「えっ?」
「昨日の夕方、久利さんたちが町まで連れて行かれて。途中で故障した車も回収したとか。車は町の修理工場に運ばれて、3人の方はバスに乗られたそうですよ」
「……そ、そう、ですか……」
置いていかれた?
計画通りにいかなかったから?
まさか本当に、撤退するなんて。
わたしに一言もなく……。
驚き、息を呑んでただ立ち尽くしているだけの未来の手に、そのとき、すれ違いざまに世話役の女性の1人から紙が押し込まれた。
その紙には『北の土蔵に来て A』と書かれていた。
(A――綾乃ちゃん!?)
ああ、やっぱり作戦は続行していた! 撤退したと見せかけて、まだ近くにいてくれたんだ!
心細かった胸に安堵と高揚がどっと押し寄せて、未来はようやく胸の中で塊になっていた重い息を吐き出して、普通に呼吸ができるようになった。
きっと2人も分かってくれたに違いない。たとえ分かってくれていなかったとしても、もう交代なんて無理な状況だから、おそらく新たな作戦を組んで、それを話すために呼び出しをかけたのだ。
それ以外考えられないと、未来ははやる気持ちを抑えて残りの作業をこなし、夜、世話役たちの目を盗んで小屋を抜け出すと主屋の庭を抜けた先にある、北の土蔵へ向かった。
土蔵に鍵はかかっていなかった。
重くて厚い扉を引き開けて、暗い中に目を凝らす。土蔵の中央には死者を弔う祭壇があり、手前には、花に囲まれた白い棺が置かれていた。
絃葉のものだと気付いてどきりとしたが、だから人が来ないと考えてここを呼び出しの場に選んだのかもしれない、と思い直した。
「綾乃ちゃん……?」
それでも入る決意がつかずに、入り口から名を呼ぶ。
返事はない。まだ来てないのか……。
だれかに見られると厄介だ。中に入って待つべきだろうか……迷っていると、床に倒れるほど強い力で突き飛ばされた。
「!?」
驚き、急いで振り返った未来の目の前で、扉が閉ざされ、ガチャリと鍵のかかる音がする。
だまされた! と瞬時にさとった。
「開けて! 綾乃ちゃん!」
どんどんとたたく。
しかし返ってきたのは綾乃の声ではなかった。
「だれも来ません。声は主屋まで届きませんから、叫んでも無駄です」
扉に後ろ手をあて、伝わる振動から未来が扉のすぐ向こうにいることを感じながら、静子は言う。
「1日でいいんです。明日の夜までここにいてください」
そして、「ごめんなさい。でも、あなたのためなんです」と声にならない声でつぶやき、この場を立ち去った。
土蔵の中にいる未来には、静子の立ち去る足音は聞こえない。
「開けて! お願い! 開けて! ……だれか来て!!」
必死に叫ぶ未来の後ろで、音もなく。
棺の中に入れられていた花を散らして、むくりと絃葉の遺体が起き上がった。