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第8回

 は、夜の森を歩くのが好きだった。


 ずっと長い間、真っ暗な闇の中にいた。

 いつからそうしていたのかも忘れてしまうくらい、ずっと、ずっと、長く。

 不満はなかった。歩にして前35、横47。そこに『果て』があり、ここにいるのは自分とだけ。それが普通だと思っていた。それ以外について、考えたこともなかった。

 だがある日、頭上から光が差して、果ては果てなどでなく、壁でしかないのだということを知った。


 果ての先には世界が広がっていた。


 頭上に開いた穴へ向かって飛び、やすやすと外へ出られた。出た先は浅い岩穴で、目の前に広がっていたのは鬱蒼と茂った森だった。

 そうだ、あれは森だ。

 視界に飛び込んだ瞬間に、は理解していた。いや、思いだしたのだ。長い、長い、永遠にも似た時間の中で忘れていた記憶の断片がよみがえっていた。

 あれは森、木の集まり。


 懐かしさにかられて岩穴から出た瞬間、上から降りそそがれた、まぶしく、強い光に目と肌をやられて悲鳴を上げると、すぐに穴の中へ逃げ戻った。

 はあはあと荒い息をするに、が告げた。


 ――おまえはもうここから離れられないよ。


 告げた、というのは正確には違う。は口を持たない。何かを見る目も、何かに触れる手も、ここから出る足も、何一つ持っていない。

 ただ、ひたすら長く、とてつもなく長い間、何も見えない暗闇の中でともに過ごしていた間には、自身との境がよく分からなくなることがたびたびあった。

 だから一歩も動けず、言葉を持たないの言いたいことが、察せられるようになったのかもしれない。


 さらには告げた。


 ――おまえはただ、そう、ほんの少し、動ける場所が広がっただけにすぎない。


「……なぜ」

 とは問うた。

 なぜ、そうなのか。なぜ、そうと分かるのか。

 問いに、は沈黙した。

 それを知ったところで意味はないということだろうか。


 それから、は何もしゃべらなくなった。

 そもそも口もない相手が話せると思うほうがおかしいのだろう。

 が何を考えているかには全く分からなかったが、そのうち大して気にならなくなった。



 もっと面白い、よくしゃべるが手に入るようになったからだ。



 白装束に身を包み、酒や米、榊など、さまざまな贈り物とともに輿に乗せられて穴から降りてきた人の娘は、地にひざまずき、三つ指をついて、に向かって頭を垂れた。

 とても静かで、とても自然で、とても美しい所作。そこには見間違えようのない、に対する敬畏けいいがあった。


 そんなふうにに相対したものはいなかった。


『山の神よ。村の者の願いを持って、あなたのもとに参りました。

 偉大なあなたさまのお力をもちて、どうか幾久しく村が繁栄するように、村と、そこに生きる者たちをお守りくださいませ』


 そう告げる声も、春告げ鳥のように耳に心地よく、涼やかだったような気がする。

 あれから長く、同じような時を過ごしてきたせいで記憶はすり切れて、あまりよく思いだせないが。


 だが面を上げたときの娘は思いだせる。

 決意を秘めた瞳、一文字に引き結ばれた唇の、血がにじんだ赤さ。



 そしてその後に彼女がこぼし続けた涙と、苦鳴の声も。





 は常に問い続ける。


『おまえの願いは何か? それは本当におまえの心からの願いなのか?』


 娘は答える。


『どうか幾久しく村が繁栄するように、村と、そこに生きる者たちをお守りください』


『そうか』


 とは応える。


 だが彼女には村が今どうなっているか分からない。

 穴の底にいる彼女に見えるのは、手の届かない頭上に開いた穴と、彼女に問いを投げに現れるだけだ。



 はたして村は守られ、繁栄しているのだろうか?

 はたして村の者たちは、健やかに過ごしているのだろうか?

 はたして村の者たちは、わたしのことを覚えてくれているのだろうか?

 そして…………ああ、はたしてこの行為自己犠牲は本当に正しく、尊い行いであったのだろうか……?




 穴に降りた 娘には もはや 何も わから ない 。





 そうして娘たちは己の生んだ疑心に心を疲弊させて死んでいった。





 今、その夜と変わらない月を見上げて、は久々に彼女のことを思い出していた。

 最初の娘。彼女が一番長くもった。

 その次の娘も。

 またその次の娘も。

 だが回を重ねることにだんだんと、もたなくなってきた。

 この前の娘など、ほんの数日だった。


 見た瞬間に分かった。これも使命を持たない娘だ。その言の葉の願いは強くない。先の娘のようにすぐに心は折れ、願いは萎えてしまうだろう。


「……つまらぬことだ」


 一番長くもった最初の娘。そう、たしか長く美しい、艶やかな髪をしていた。少し力を加えればぽきりと折れてしまうような柔な体つきをしていながら胸に抱えた願いは強く、美しく、決して心折れることはなかった。

 衰弱死するまでの長い間、存分に楽しませてくれた。


 あれは、何という名だったか。

 忘れてしまった。

 たしか、春の花の名だったような――そんなことをつらつらと考えていたときだ。

 はっと息を呑むような、小さくかすかな音を聞きとって肩越しにそちらを見ると、片廊下に白の和装をした長い黒髪の娘が立っていた。


 目を見開き、がいることが信じられないと言うようにかすかに唇を開いた、驚きの表情。これまでの娘たちが必ず見せてきた表情だ。しかしそのことに失望を覚えることはなかった。

 娘を見た瞬間、は己の中の何かが反応するのを感じた。

 こんなものを感じたのは何十年ぶりだろうか。間違いなく、これまでの娘には感じたことのないものだ。

 すっかり忘れていた呼吸を思いだし、胸いっぱいに吸い込んだような、新鮮で、爽快で、それでいて心躍るような感覚。


 森を散策中、今まで感じたことのない不思議な強い気配を見つけて、ここまで追ってきてみたのは正解だったようだ。

 自然と口元に笑みが浮かぶ。





 黒い和装の、長い髪を下ろした長身の美男子の姿をしたは、人ではあり得ない、黒く染まった闇色の目で未来を捉えて、はっきりとそう言ったのだった。


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