彼女は暗闇にいた。
もう何日たつのか……はじめのうちは地面に正の字を書いて数えていたが――他にできることもなかったから――途中でやめてしまったから、分からなくなってしまった。
出口も入口もない、天井部に1メートルくらいの穴が開いているだけの場所。ほんの十数メートルの高さだ。たぶん、20メートルもない。けれど、伸ばした手の届く距離でもない。
壁を登ることもできない。ここはまるで
落ちたが最後、自力では抜けだせない。
彼女は落ちたわけではなかった。むしろ、自分からここへ来たとも言える。自らの意思で、自ら望んで、ここへ下りたのだ。ある意味。彼らにだまされたという点を考慮しなければ、だが。
ほんの数日だ、と彼らは言った。長くても3日だと。食料は朝夕毎日届けるし、終わったら礼金も払う。これはただの儀式で、毎年行われていることで、去年同じことをした子もいるから、と。
彼らが提示した礼金は、とても魅力的な金額だった。3日間を穴の中で過ごすというのは退屈極まりなく思えたが、本でも携帯ゲーム機でも持ち込んでいいということだったので、受けることにした。圏外のため、スマホを持ち込めないのが唯一残念だった。
言われたとおり、中に下りたらまず壁際にある祠――木製の、とても質素な物で、歳月によってすっかり黒ずんでところどころ腐って傷んでいた――に一礼し、下りる前に渡されていた供え物を供物台へと並べて手を合わせる。
それで、もうすることはなくなってしまった。あとはここで1~3日過ごすだけだ。
日中は持ち込んだ雑誌を読んだり、ゲームをして過ごした。
穴に下りた最初の夜に、
大好きなソシャゲ『Origin Sin』の
夜の闇の中でもはっきりと分かる、黒い靄に包まれて、人ならざるモノの気配を漂わせていなければ。
『女よ。おまえの望みは何だ?』
静かに歩を進め、
傲岸不遜なその声の響きにふさわしい、笑みを浮かべて。
人を超えた美しさに胸の鼓動が早まったのを自覚しながら、震え声で彼女は答えた。
「村の……、繁栄です。どうか
これで儀式は全て終わった。聞いていたとおりだと、ほっとした次の瞬間。
『それが真の願いであるか、おまえの心に問うてみよう』
気付けば朝になっていて、身を起こす気にもなれない、無気力感と疲労感が全身をおおっていた。
顔を横に倒すと、食事が入ったかごがあった。いつの間に穴から下ろされていたのか、全く気付けなかったが、そんなことはどうでもよかった。
のどが熱く、ひりついている。
這っていき、どうにかこうにかかごの中身に手を伸ばして水のペットボトルをつかもうとし、何度も失敗しながらもやっとのことで飲むことができた。
つかの間ほっとできたものの、夏の太陽がじりじりと背側を焼く。暑さに耐えかねて日陰まで這い進み、体をどうにか仰向けにする。それだけで全ての力を出しきったように思える。
この倦怠感と疲労感が、昨夜のあの出来事にあることはなんとなく分かったが、それでなぜこんなにも疲れきっているのか、彼女には分からなかった。
思考するのも面倒なくらい疲れはて、うつらうつらと浅い午睡を繰り返しているうちに、夜になっていた。
またいつの間にか夜食のかごが下ろされているのが分かると、ぐうとおなかが鳴った。疲労感は残っていたが、眠ったことで意識と体力は少し回復していた。面倒より食欲が勝ち、どうにか身を起こしてかごまで行く。そこに入っていたおにぎりを一口食べて、ようやく一息つけた。
涙がこぼれた。
こんな役目を受けたことを後悔した。礼金が高いのもうなずける。安易に飛びつくんじゃなかった。
もうたくさんだ。明日、かごを下ろす人に言って、上げてもらおう。そう考えたところで、ぎくりと身をこわばらせる。
いつからそこにいたのか。またあの男が立っていた。
薄い笑みを浮かべて、昏い目で見つめている。
『女。おまえの望みを聞こう。おまえは何を望む?』
昨夜と同じ、美しい姿、美しい声音。
しかし今夜は、それに見とれることはできなかった。体は金縛りにあったように動けず、ぽとりと手からおにぎりが落ちる。
目の前の男が、ただただ恐ろしい。
彼女は視線を下げた。乾いた地面を、そこに転がった食べかけのおにぎりを見つめながら、昨夜と同じ言葉を口にした。
男の姿をした何かもまた、『そうか』と応えた。
真の願いか心に問うと言い、背を丸めて縮こまった彼女を覆い尽くすようにかぶさってきた瞬間、ぐるりと世界が逆さまになったような気がした。
お願い赦して、と彼女は言った。だがその言葉は、彼女の耳にすら聞こえなかった。
どうか助けてください、と懇願した。しかしそれすらも、口にした先から、はたして自分は本当に言ったのだろうかと分からなくなってしまう。
自分は、手を伸ばしているのだろうか?
足は、何かに触れているのだろうか?
何も、何も、分からない。
暗闇の中で、彼女はどうすることもできず、気が付けば朝になって、地面に置かれたかごを呆然と見つめていた。
毎夜、同じことが繰り返された。
何の痛みもない。かまれたり、刺されたりといった、そういった怖さはない。
彼と話したあと、極度の疲労感に襲われるだけだ。
彼女は必死に這い進み、かごに入った食べ物を食らい、地面にこぼれた水を犬のように飲んだ。
しかしついにはそれすらもできなくなり、やがて、かごは下りてこなくなった。
死んだと思われたのかもしれない。
事実、彼女は死にかけていた。
焦点の定まらない目はもう何日も前から何も映さず、光すらも捉えていない。
常に暗闇の中にいて、
目に続き、耳も、指も、足先も。全ての感覚は失われた。
現実はひたすらに
『女。おまえの望みは何か。おまえは何を望んでいる?』
「………………たい…………」
カサカサに乾いてひび割れた唇が、もごもごと動く。
あるかなきかのささやきで、彼女はつぶやいた。
「いえに……かえり、たい……」
そして目尻から1粒涙を流し、小さく、引きつったようにガクガクと胸を上下させると、それっきり、動かなくなった。
彼女の死を理解した
そしてだれにともなくつぶやいた。
『次の女は、もう少しわたしを楽しませてくれるだろうか』
と。