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最終回

 吹き荒れた強い風は、始まりと同じように唐突に消えた。


 物が散乱した室内で、加藤が、一体何が起きたか分からないといった顔つきでテーブルを支えによろよろと立ち上がる。

 棚から落ちてぶつかった何かのせいで、頭がずきずきと痛んだ。あてた指に、ぬるりとした何かが付着する。出血しているのかもしれない。

 西森は仰向けになって倒れていた。切り裂かれたのどの傷は深く、ほぼ右半分を切断している。壁や天井、窓にスプレーを吹き付けたかのごとくしたたり落ちる大量の鮮紅色の血を見ても、死ぬまで1分とかからなかったことは素人目でも分かった。

 加藤は、西森の血で赤く濡れたそれらから視線をそらした。


 あの風も、西森のしていたことも、まるで理解できなかったが、今はそんなことはどうでもよかった。かまっていられない。

「菜摘……」

 娘の姿を求めて見た先で、壁際で綾乃にかばわれた菜摘を見つけることができてほっとする。

 綾乃は加藤に場所を譲って昏睡状態の菜摘を任せると、西森の死体と、からになった布団を凝視している隼人の元へ行った。

「安倍――」

「追うぞ」


 西森は逃げるため、怨霊となった。怨霊になって、ナイトフォールを開いた。

 いざなぎ流の太夫である彼にはその知識があったろう。追い詰められた彼が一か八かでその選択をしたのも分かる。

 だが西森はただ逃げただけでなく、美千惠のうつし身も連れて行った。

 逃げた先で、愛娘を起こすためにまた誰かを呼び水にしようとするのは分かりきっている。縁のない者を用いても成功率は低いが、それでも、あの西森なら何度でも繰り返しかねない。


 それと知る綾乃も、隼人の決断に異を唱えなかった。

 あの怨霊をこのまま放置できない。

「未来」

 振り返ると、未来はすでにナイトフォールを開くための行動に移っていた。


 ナイトフォールは基本的に、目的とする者・場所と縁がなければ入れてもどこに出るか分からない。何十キロも離れた場所に出てしまうこともよくあり、そうなっては意味がない。

 自分たちと西森との間に縁があるとは言いがたかったが、ここは西森が長く過ごした場所であり、加藤や菜摘もいる。それらを用いれば――そして術者にそれだけの力量があれば――完全に同じ場所とならずとも近場に開くことができなくはない。


 ぱぁん、と完璧な柏手が打たれる。


たてまつの柏手に、来たりましませ外山の戸山津見神とやまつみのかみ……」


 異界ナイトフォールへの道を開くという、献舞者デディケーターのみが可能な蘊奥うんおう。数百年の長き年月をかけ、研さんを重ねた数多あまた献舞者デディケーターによって生み出されたそれは、手の動き、足さばき、声の高低、音調、全てが極限まで磨き抜かれている。


 一際高く、ぱぁんと美しい柏手が打たれたとき。ナイトフォールへと通じる門が開かれていた。

 先の、力の風が吹き荒れて一瞬で崩壊した不安定な開門とは全く違う、穏やかで安定した門。

 これぞ献舞者デディケーター・佐藤 未来の真骨頂である。


「行くぞ」

 隼人が先陣を切って門へと入る。

「行ってくるね。未来は彼らをお願い」

 分かってる、と未来がうなずく。

「綾乃ちゃん、安倍くん。気をつけて」

 身を案じる未来の前、綾乃は門をくぐった。



◆◆◆



 出た先に、やはり西森はいなかった。


 そこは2人も見覚えがある村の一角で、首切り地蔵のある大利寺おおとくじへと通じる道の途中だった。美千惠の墓があるこの道を、西森は何度も歩いたに違いない。


 いつものように、夕方の空の途中で止まった太陽。しかし空も、山も、色はほとんどなく、あざやかさとはほど遠い。鳥の声も虫の声もしない。ただただ静かに雪のような灰が降り、白と黒と灰色でできた景色はひどく冷たくよそよそしく。寒さは感じられないのに、凍えそうなほど寒々として見えた。


 孤独な西森の心象風景。


「シュードだね。西森は怨霊になりたてだから、シュードしか開けないんだ」

 シュードとは既存のものでなく、怨霊が独自に開く小規模のナイトフォールである。

 よかった、と綾乃は内心でほっとする。既存の大きなほうはさまざまな怨霊やナイトフォール独自の生き物――はたして『生きているモノ』と称していいかは分からない――がいる。ほとんどのモノがせいのにおいに鼻が利くので、2人の侵入に気付いて寄ってこられたら厄介だった。

 西森を追わなくてはいけないのに、そんなやつらの相手までしていられない。


「さて。西森はどこへ行ったのかな」

 道の左右を交互に見て、綾乃がつぶやく。

 同じように気配を探っていた隼人が

「あっちだ」

 と言って、道を外れて畑に入った。

「どうして分かるの?」

 自分には分からなかった。純粋な疑問として問う。

 隼人はついてくる彼女を肩越しに見て、「足元を見ろ」と視線で指した。


 言われるままに足元に視線を落とした綾乃は、草に緑の色を見た。

 注意して見ないと分からないくらい微妙さだったが、草や土がほんのり色づいている。そしてそれは点々と、隼人が向かっている前方に続いていた。

「おそらく、やつの思い出の道だ」

 土手を上がり、あぜ道へ出ると色が濃くなり、範囲も広がって、見つけやすくなる。

 周囲の無色と対照的なそれは、村に入るとますます明瞭となった。


 生きたものが何一つない、無人の村。カーテンが引かれた窓や閉ざされた玄関門に、よそよそしさを感じる。

 自分を拒絶する世界。それが西森の目に映った村なのだろう。


 色の範囲が広がるにつれて、どこからか少女のくすくす笑いが聞こえてきた。

 奥の路地から人影がちらりとのぞき見えたり、通り過ぎたばかりの側路を横切る子どもの気配が起きたり。

「気にするな、どれも幻だ」

 思わずそちらを振り返った綾乃に、隼人が言った。

 敵意や悪意が感じられないことから、綾乃も足を止めず無視することにする。


 やがて2人は、村はずれの休耕田へたどり着いた。




 しんしんと音もなく降り積もる灰で白くけぶった山々を背に、全てが灰に埋もれた、雪原のようなもの寂しさを感じる場所。

 寂寞たる光景が延々と連なるその中央に、立ち尽くす真っ黒な長身の人影があった。


 こちらに背を向けているが、猫背気味で、黒のロングコートを着ているようなそのシルエットは、西森に間違いない。

 追ってきた色の円は西森へ近づくごとにあざやかさを増し、その範囲を広げ。彼の周囲は、黒づくめの彼とは対照的に明るく、蝶たちの飛び交う緑の花畑になっていた。


 微風に揺れる濃い桃色の小さな花々は、れんげ草だ。

 モンシロチョウやモンキチョウが舞い飛び、春の日差しに照らされた世界で、美千惠が仰向けに寝かされている。

 西森にとって、娘の周りだけがいきいきと色づいた、優しい、あたたかな世界なのだ。



 ポケットに両手を突っ込み、ざくざくと灰を蹴散らして、隼人が近づく。

 身を隠すところなどない、永遠の灰野原で、西森が2人の存在に気付いていないはずがなかったが、西森は美千惠だけを見つめており、面を上げようともしない。


「西森」

 用心のため、西森が何をしても対処できる十分な距離をとって足を止めた隼人が、ぞんざいな口調で呼びかける。

「もうあきらめろ。どうしたって、その子は目覚めない。おまえは失敗したんだ」

 そこで言葉を切って反応を待ったが、西森は何の返答も返さなかった。

 彫像のように動かず、ただただ、美千惠ばかりを見続けている。

 聞こえていないのかと、眉をひそめた直後。ゆらりと影のようにその肩が揺れて、西森が隼人たちを振り返った。


 西森は死んだときの姿のまま、首から流れ落ちる血でぐっしょりと半身を濡らし、血の涙を流した能面のようにその顔は真っ白く、血の気が全くない。

 陰鬱な一重の半眼で、虚ろな穴のような目を2人に向けた。

 青い、薄い口唇こうしんが開き、三日月のような笑みを形作る。


「いいや? そんなことはない」


 確信を含んだ愉悦の言葉に、まだ何かあるのかと警戒する2人の前、西森のロングコートが動いて、長い――通常の倍はある――枯れ木のような手が伸び、美千惠の頭に触れた。愛おしげにそのまま顔をなでる。

 細く長い、ごつごつとした指が通り過ぎたあと、美千惠の目が開いていた。


「!!」


 驚く隼人たちの前、美千惠の頭が横に倒れて2人のほうを向く。

 その見開かれた目、顔を見た瞬間。

 2人はさとった。


「凶相が出てる」

凶癘きょうれいだ」


 2人は同時に口走った。

 言葉は違えど、意味は同じだ。

 美千惠をよみがえらせる方法を探し続けた西森は、希望と幻滅を繰り返した後、陰陽道のとある本に、かすかな光を見いだしたのだろう。

 かつて西行が行ったという反魂の秘術。高野山に散らばった人骨を拾い集め、ぎ合わせ、人の形としてそこに魂を入れた。

 西行は言った。

『白骨は単なる物であり、材料である。造られた人も人形である』

 魂の抜けたあとに残る骨は物でしかない。逆を言えば、魂を入れさえすれば人なのだ。

 ゆえにそれを材料とし、人形ひとがたとし。魂を入れれば、それは人と成る。


 だがここでおそらく西森は読み間違った。

 陰陽道で言う『白骨』とは、死後30日以上経過したものを指す。30日を経過しない骨ははくが宿った穢とされる。

 それをる隼人は、西森が3人の少女の骨を使ったことから術の不全を見抜き、美千惠は目覚めないと考えた。


 ではなぜ美千惠は目を覚ましたのか。


 美千惠の全身には西森の血がついていた。西森は怨霊になる気も、ナイトフォールに逃げ込む気もなかったのだ。

 それらは結果的にそうなっただけで、あのとき、追い詰められた西森は、菜摘の代わりに自らの命を呼び水に使って美千惠の反魂を成そうとしたのだった。


 けれども結局のところ、それは術の不全を正すことにはならない。


 彼は凶癘魂(魄)のある骨を使った。

 それは不完全な、魄のキメラでしかない。



「美千惠……美千惠……」

 西森は能面の顔から血のうれし涙を流しながら、身を起こした美千惠を抱きしめる。

 だが美千惠は目を開けているが無表情で、何も言葉を発しない。ただ息をしているだけ、喉笛を通るとき、風のようにヒューヒュー鳴っているだけだ。


 魄を詰め込んだだけの人形。


 その姿に隼人は目を眇め、西森へと近づいた。

「それは人間じゃない。息をしているだけの人形だ。

 。おまえも知っているはずだ」

 彼女の魂はそこにない――と言いかけたところで、美千惠が動いた。ぐい、と西森を押しやって立ち上がり、言葉を発した。


「パパ」


 美千惠は「パパ。会いたい」との言葉をくり返しながら涙を流しているが、それは無意識下の反射動作のようなもので、赤子の原始反射と変わりない。西森や、周囲ナイトフォールから影響を受けた魄によって体が反応しているにすぎなかった。


「パパはここだ! ここにいるよ、美千惠!」

 西森がいくら声をかけてもその言葉は美千惠には届かず、美千惠はゆらゆら体を揺らしながら感情のない声で「パパ」と「会いたい」を繰り返すだけだった。




「……こんな……こんなことのために、4人の命を……!」

 綾乃は震えるこぶしをぎゅっと握り締め、符を持つ手を構えた。

「この鬼め!!」


「僕も死ぬからいいだろう!!」


 美千惠を抱きしめたまま、西森は叫び返した。最初からそのつもりだったと。

「僕も、美千惠と一緒に死ぬんだ……一緒に死んで、一緒に生まれ変わって……そうしてずっと一緒にいるんだ……二度と離れない……」


 西森は、生き返った美千惠ともう一度会いたかった。そして今度こそ一緒に自分も死にたかった。一緒に死ぬことで、一緒に生まれ変わりたかった。二度と離れずにすむように。


「そんな……、そんなの、おまえにとって都合のいい、ただの思い込みだよ! たとえ数百人、数千人が一度に亡くなっても、魂が都合よく同じ刻、同じ場所に転生するなんて限らない!

 それに……、それはもう、新しい命だ。おまえでも、その子でも、ない」


 怨霊は転生できない――綾乃は、極悪非道な西森の所業を決してゆるせなかったが、それでも、もう一度娘に会いたい、もう一人はいやだと子どものように泣く彼を前に、それを口にすることができなかった。

 符を放つことができずに、ただただやるせない思いで唇をかむ。


 天にも地にも行けない怨霊は、滅するしかない。

 どうしたって、西森はもう魂のレベルで、未来永劫愛する娘とは一緒になれないのだ。



 どんなに……血のにじむ思いで叫んでも、西森の願いは決してかなわない。

 ある意味、それこそが彼にふさわしい罰とも言えるだろう。



 それと知る隼人は、西森を見、頭をがりがりっと掻くと、はーっとため息を吐き出して、どかりとその場にあぐらをかいて座った。

「安倍隼人?」

「魂寄せを行う。

 まだ転生してないならどっかその辺にいるだろ。おまえの言うシュードでも、一応ここも常世とこよ(ナイトフォール)にはかわりないからな」

 一部がつながっている可能性はある。あくまで可能性の話だが。

 そう思いつつも印を結び、目を閉じて、口内でぶつぶつと明呪みょうじゅを唱える。


 はたして、どこからともなく白い光を放つ球体が現れて、ふわりふわりと美千惠の体に入った。

 昏く沈んでいた目に心という光が宿り、言葉に感情が乗る。

「……パパ?」

「美千惠……! 美千惠、おまえなのか?」

「パパこそ。本物のパパ?」

「ああ! パパだよ、美千惠!」

 美千惠は困惑した表情で目をぱちぱちさせ、小首をかしげる。

 声は父親のものなのに、顔が全く違っている。肌は真っ白だし、目は白目の所も真っ黒で、なんだか赤い物が目から流れている。それに、体つきも違う。でも話し方は父親だ。名前も呼んでくれている。

 美千惠が困惑するのも無理はない。

 けれど、7歳児の柔軟な――そして単純な――思考で、すぐに目の前の人物を父親と認めたのか、にっこり笑って「パパ」と西森の首に腕を回してほおずりをした。

「パパだぁ。会いたかったよぉ」

「美千惠……」

 ふんわりとした猫っ毛の髪が西森の頬に触れ、鼻先をくすぐった。

 あたたかくて柔らかな体から、懐かしい美千惠のかおりがする。


 もう二度とこんなふうに抱きしめることはかなわないのだと絶望し……そして、もう一度抱きしめることができるなら、次の瞬間永劫の地獄に落ちてもかまわないと、何度思っただろうか。


 何年も、何年も。それ以外何も考えられなかった。夜も眠れず、食事もろくに飲み込めず。何をかんでも砂を食べているように感じ。心穏やかだった日々はどのようだったかも思い出せないほどはるかに遠く。荒涼とした夜の山中を、幾度さまよっただろうか。行くあてなどなく、ひたすらに、あるはずのない影を追って……。


 たった独り。

 声が枯れるほどに名を呼んでも、どこからも返る声はない。

 あんなにも愛した――、愛してくれた――、唯一の存在。

 永遠に明けることのない夜の中で狂うほどに求めた美千惠が、今こうして腕の中にいる。


 西森は涙でぐしゃぐしゃになった顔を美千惠の胸に埋める。

 そんな西森を抱きしめ、いいこいいこと頭を撫でて、美千惠は言った。


「だいすき、パパ。でも、もう美千惠、行かなきゃ」

「ど、どこへだ!? いやだ、行かないでくれ、パパとずっと一緒にいてくれ!」


 必死にすがりつく西森に、美千惠は「ごめんなさい」と首を横に振る。その姿が、かすかに白く発光していた。

「美千惠もパパと一緒にいたいけど、でも、だめなんだって」

 純白の魂が体から抜けようとしている。

「そんな……、美千惠……!」

「そうだ、パパ。パパも一緒にくる?」


 いいことを思いついた、と無邪気な笑顔で差し出された誘いの手を、まるでたった一つの救いの糸そのものであるかのように西森は両手でしっかりとつかむ。

 そのまま2人は宙に浮かんでいき、ある高さまで昇ったところですうっと空に溶け込むように消えていった。



◆◆◆



「……西森は、天に上がれたの?」


 空を見上げたまま、綾乃が訊いた。

「いいや。2人の行く道は別々だ。おまえの言うとおり、己のエゴで身勝手に4人も殺したやつが天に上がれるはずないだろ」

 ぶっきらぼうにそう言って、ズボンについた灰を払い、隼人が立ち上がる。

「だよねえ。さすがにあんたでもそれは無理か」

 ははっと笑う綾乃に、隼人はむっとした顔を向けた。

「俺でもってなんだよ。俺のできたことなんか、たかがしれてるだろ」

「そりゃそーだ」

 式王子たちとの闘いでほおについたあざを見て、綾乃がにやりとする。

 彼女の見つめる先に気付いた隼人は、少し決まり悪げに手でほおをぬぐう仕草をした。

「痛い?」

「……べつに」

「痛いって言ってたくせに」

 強がっちゃって、とくすくす笑う綾乃に、隼人は口をへの字に曲げる。

「そんなことより、さっさと出るぞ。西森がいなくなって、ここもいつ崩れるか分からないからな」

「あ、そうだった」

 崩れたからと、異界に閉じ込められることはない。ただ適当な場所に放り出されるだけだ。そこはどこともしれない山奥かもしれないし、海のど真ん中かもしれない。

 そんなのはごめんだと、きびすを返して未来の待つ門に向けてそそくさと戻っていく綾乃の背中に、ふっと息を吐きつつ隼人もならう。

 去って行く2人の後ろでは、灰が舞い散る中まだ色を保ったれんげの花が、かすかに揺れていた。






【第4話・惨めな者 了】



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