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第21回

 朝がきて。


 西森は、一晩じゅうかかって解体を終えたそれらが詰まったバケツを両手に提げて小屋を出、いつものように川へ向かった。

 口から飛び出すほど詰め込まれたバケツはずしりと重く、歩行に合わせてゆらゆらと揺れている。ときどき足に当たって、中から液体がこぼれた。液体はズボンも汚したが、西森は気にしない。

 点々と河原の石を濡らしながら川べりまで行くとバケツを下ろし、中から1つ取り出して川の水ですすいだ。手のひらから余る大きさのそれを、持ちやすい角度へと変える。おもむろにズボンのポケットを探り、小刀を取りだした。


 昔、この仕事につくと決めたときに師からいただいた刃物の1つだった。柄と刃が一体になったもので、手先の微妙な力加減がそのまま刃に伝わって扱いやすく、細かな所まで刃先が届く。大切に手入れをしてきたこともあって、20年たってもまだこうして問題なく使えている。これで大まかに肉や血脂をそぎ落としてから煮ると時短になって、燃料が節約できるのだ。


 火葬場と同じだ。必要なものであっても、ひとは、身近にそれがあることを嫌う。だから西森は山を買って、工房を山の中に構えた。しかし必要な設備を構えるには資金が足りず――生まれたばかりの赤子がいると、何事もそちらが最優先になるものだ――便利さ、効率というものは後回しとなった。今ではすっかりこの手順に慣れて、変える気はない。


 夜のうちに慎重に、細かく、関節で切り離したそれらは、1つ1つが小さい。誤って骨に刃をあてて傷つけないように、細心の注意を払って皮と肉をそぎ落としていく。終わったら次の部位に取りかかる。そのくり返し。

 集中して、無言で作業を続けているうち。ついにずっと丸めていた背中の痛みが堪えられないほどになって、西森は立ち上がると、うーんと腰を伸ばした。


 多少軽くなったバケツを手に小屋へ戻り、ウジの入った水槽の前に立つ。昨日入れておいた小さな骨は、大量のウジによってきれいに掃除されていた。その出来に満足し、先ほど川から持ち帰った分と入れ替える。

 取り出した骨たちは、もう一度水で洗って磨かないといけないだろうが……ふと思い立ち、それらを手に、仕切り布で間仕切られた隣室へ向かった。


「美千惠、これを見て。裕子ちゃんを覚えているかい? ほら、おまえと一緒にバスで通っていた、ふわふわした髪の長い子だよ。

 これは彼女の指の骨だ。とてもきれいな指をしていたからね、きっと美千惠も気に入るよ。ああ、大丈夫。少し足りない分は、さっき洗ってきた由紀ちゃんか美保子ちゃんので間に合うだろうから」


 西森は、幼子のご機嫌をうかがうときに大抵の親がそうするように、いくぶん高めの声で楽しげに、奥の壁際にかぶせられたシーツをめくった。



◆◆◆



 昼前。いつものように、料理の入ったタッパーを包んだ風呂敷包みを提げて、菜摘は西森宅へ向かっていた。


 気分が重い。2日前、あの旅行客が首切り地蔵に首を刈られたと聞いたときからずっとそうだ。

 『あんな人たち、お地蔵さんに刈られちゃえばいい』なんて言ってしまったことを、心の底から後悔した。まさか本当にそうなるなんて、思ってもみなかった。彼らが村の地蔵をばかにして、蹴ったと知ってものすごく腹が立ったから思わず口にしただけで、全然本気じゃなかったのだ。

 軽々しくあんなことを口にするんじゃなかったと、何度思ったことか。


 だけど今は、もっと気分が悪い。

 大変なことが起きたと近所の山本さんが駆け込んできて、昨夜地蔵に由紀と美保子が刈られたことを聞いた。首なし地蔵の首の代わりに、2人の首が乗っていたと。

 どちらも同い歳の友人で、特に由紀はクラスも同じで、毎日一緒に学校へ通う間柄だった。家族旅行から帰ったら町へ映画を観に行こうと約束していたのに……。


 なんて痛ましい、と大人たちは話していた。2人の両親について話し、彼らの気持ちを思うと……と言っていた。だけど、同時にほっとしているのもなんとなく分かってしまった。

 刈られた首は全部で4つ。お地蔵さんも、これで満足してくれるに違いない。自分や家族が標的になることはない……。


 だれだって殺されたくないし、大切な家族に死んでほしくない。

 菜摘も、もし自分や、両親が殺されたりしたらいやだ。


 由紀や美保子が死んだからもうそんなことは起きない、と考えるのは、ほっとすると同時に自分が黒く汚れたような、とてもいやな気持ちになって……胸に重い。

 まるで、美千惠が死んだときみたいだ。

 鬱々うつうつと、そんなことを考えながら西森宅に入り、タッパーの中身を冷蔵庫に入れて、空容器を風呂敷に包む。

 家を出たとき、道を歩いてくる西森に気付いた。

 西森は相変わらず身なりを構わないいつもの格好で、足元がひざまで濡れていた。乾きかけているからここに来る前に川で作業をしていたのかもしれない。少し生臭くもあった。


「おじさん」

「やあ、菜摘ちゃん」

 笑いかけられる。声も明るくて、今日の西森は機嫌が良さそうだと思う。

 自分とは正反対だと思うと、笑みが少しゆがんだ。

 西森は、いつまでもうつむいている彼女の様子がおかしいことに気付いたようだった。

「どうかしたのかい?」

 心配げにのぞき込んでくる彼の視線から逃げるように菜摘は横を向く。

「……いえ。何でもないです。

 料理は冷蔵庫に入れてありますから……」

 それじゃあ、と会釈して横を抜けて去ろうとする菜摘に、推し量るように彼女を見つめた西森は、ふと何かいいことを思いついたような表情で菜摘を呼び止めた。

「菜摘ちゃん、ちょっと待って。

 美千惠に会っていかないかい? この後、時間があるならだけど」


「……美千惠ちゃんに……?」


◆◆◆


『美千惠に会わないか』


 普段の菜摘だったら、そんなことを言われても取り合わなかったろう。

 美千惠は8年前に死んでいる。ちゃんと葬式も行われて、お寺にお墓もある。毎年、菜摘は両親と一緒に墓参りをしていた。

 だけどこのとき菜摘は心が弱くなっていて――それにおそらく、西森へのあわれみと長年の罪悪感もあって――ふと、考えてしまったのだ。


 おじさんがこんなふうに言うのは、何か理由があるからじゃないか、と。


 もしかしたら山で見つけた野生動物に『美千惠』と名前を付けて、飼っているのかもしれない。ハクビシンとか、タヌキとか、リスとか、ウサギとか。

 それが一番考えられる、まともな理由だった。

 それならいっとき一緒に遊んで過ごせばおじさんもうれしいだろうし、自分も気分転換ができて楽しく過ごせるんじゃないか、と。


「うれしいなあ。きっと、美千惠も菜摘ちゃんが訪ねてくれることを、すごく喜ぶよ」

 こんなに楽しそうに声を弾ませる西森を見たのは初めてだった。それだけでも良かったと思う。

 そうして西森が向かっている先が山だと分かっても、菜摘は警戒心を持たなかった。山に彼が工房を持っているのは知っていたし、1日の大半をそこで過ごしているのだから、きっとそこだと思っていた。


 小屋に近づくにつれ、獣臭と、何とも知れない嫌な臭いがしてきたが、それも彼の仕事を考えると仕方のないことだと思えた。だから人里離れたこんな場所に工房を構えているのだから。

 マスクをポケットから出してつける。


「さあ、入って、菜摘ちゃん」

 ドアを開けて待つ西森に案内されるまま小屋に入り、ウジがうごめく水槽やぐつぐつと煮える寸胴鍋のかかったコンロはなるべく見ないように通り過ぎて、奥の部屋へと入る。

 部屋の電気はついておらず、奥の大きめの窓から入る光だけだったが、そこには仕事部屋にあるような気持ち悪い物はなく、部屋の大部分を占める棚には完成した標本と、組み立て途中の骨が乗っていた。手前には作業テーブルがある。

そしてそれらを挟んだ奥には、菜摘が想像していたような小動物を入れたケージなどはなく、三畳ほどの畳と、綿の薄い布団が敷かれていた。


 布団にはだれかが横になっていて、長い黒髪が枕からこぼれて畳の上に流れている。

 顔は窓のほうを向いていて、外の景色を見ているようだ。


 それを見て、菜摘は声も出ないほど驚いてしまった。

 まさか本当に人がいるなんて、思ってもみなかったのだ。


 その何者かは全く動かずにいて、菜摘のほうを向いて部屋に入ってきた者を確認をしようともしない。西森以外あり得ないと考えているのだろうか。


「美千惠。菜摘ちゃんが来てくれたよ。懐かしいねえ、うれしいねえ」

 西森が布団の人物へ声をかける。


「…………美千惠、ちゃん……?」


 まさか。

 そんなはず、ない。


 硬直している菜摘の横を抜けて、西森は布団の人物の元へ向かう。

 愛しむ手つきで頭をなで。そして顔を菜摘のほうへ向かせた。


「ほら。菜摘ちゃんだよ。覚えているかい?」


 小さな、子どもの頭骨だった。

 おそらくそれは本当に、美千惠の物なのだろう。


 かつらがずり落ちてはずれて、頭骨が完全にあらわになるのを目撃した瞬間。

 頭を金槌で殴られたような激しい衝撃とともに、菜摘の口から悲鳴のような何かがほとばしった。



 何を叫んでいるのか、菜摘自身分からなかった。

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