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第18回

 きびすを返して走り出した瞬間、隼人は3人のことを忘れていた。


 後ろで声がして――金髪の女の声だ――3人がいたことを思いだし、彼女たちがであることを思いだした。

 普通の人たちは、彼のように動けない。5年前、そうと気付いてからは常にセーブすることを心がけてきた。それが日常になっていたために、こういうときに気付かされてしまう。

 霊について知識を持っていて、対等に話せ、多少術を操ることができても、結局彼らは普通の人間なのだ。


 自分とは違う。


 そのことに隼人は小さな失望といら立ちを感じつつ、白狐の入った試験管を投げ与え、「あとから来い」と言い残してスピードを上げた。

 そうして、彼らのことを忘れた。

 3カ月前までのように、頭の中はの気配をたどることだけになる。


 煙のように薄まりながら空気中を漂っている、詛の黒い靄。

 それは、腐臭に似ていた。


 詛は、大方の場合において人の悲しみから生まれる。


 人は嘆き、苦しみ。痛みを抱え、救われることを求めながら、他人には分からないと助け手を突き放す。

 そしてただひたすらに内生し、ぐつぐつと煮えていつまでも癒えない傷となって本人をむしばみ、膿み、爛れ、ついには腐りはて。

 そうして生まれた詛は、例外なく、吐き気をもよおす腐臭を漂わせているのだった。毒に侵され、腐りゆく心そのもののように。


 数百年前、ただの石の地蔵を首切り地蔵という呪いの術具に変えた者が、どんな苦しみや悲しみを抱えていたかは分からない。

 しかし今世の首切り地蔵もまた、不快な黒い靄を発しているようだ。

 気付いたときはかすかに漂うだけだった腐臭は、いまや閉口するまでになっていた。

 ここだ、と曲がり角を曲がった先で、首切り地蔵の姿が視界に飛び込んでくる。


 大きい、と思った。100センチほどしかない地蔵が、今は隼人の身長を超えている。

 石の地蔵が動くわけがない。あれは、詛によって発動した術具の力が首切り地蔵の姿をとって顕現しているにすぎない。

 それだけ詛が強いということだろう。


 首切り地蔵は壁に向かって立っていた。黒い靄が大部分を覆っていて細部が見分けづらいが、足元にはへたり込んだ少女がいるようだった。どうやら壁に背を預けて、地蔵を見上げて目をそらせないでいるらしい。

 そして地蔵の右手に犠牲者の首が吊されているのを視、今まさに足元の少女の首も落とされようとしているのを視て、隼人の金色の目の輝きが強さを増す。



「やめろ!!」



 次の瞬間、隼人は衝撃とともに右の壁へとたたきつけられていた。


 首切り地蔵に向かって駆け寄ろうとした、その初動を突かれた。暗い細路地から飛び出してきた何かが、手にした棒のようなもので隼人に襲いかかったのだ。

 とっさに腕でガードしたが、向かいの壁まで吹っ飛ばされた。背面を強打して、一瞬息が詰まり、目がくらんだ。

 咳き込みながらも身を起こす。


 路地から月明かりの下に現れたのは、黒狗面を付けた童子だった。その後ろには黒猿面を付けた童子、そして黒雉面、黒猪面、黒熊面と続く。いずれも手には背丈ほどもある長い棒をにぎっている。

 いずれも人の気配はなく、胸は呼吸に上下することもない。


「……式王子か」


 ぎり、と奥歯をきしらせる。


 式王子とはいざなぎ流の者が使う式神だが、基本的に陰陽師が使う『式神』とは系統が違う。いざなぎ流は自然信仰。自然に宿る神霊を式法によりくだして式神化するのだ。


 自然の神霊――それは、荒ぶる神である。


 この荒神を下し、式王子として従えることがすなわち祈祷師(太夫)としての力量を示し、数が多ければ多いほど、その祈祷師は強い力を持つといわれる。


 今隼人の前には、狗神、猿神、雉神、猪神、熊神――山の神々が立ち塞がっているも同然だった。




 分の悪い闘いだと、この時点で悟っていた。


 神霊たちを前にして高ぶった感情がさらなる力を呼んで、金色の輝きを強めた目が、こことは別の、どことも知れない場所を映す。

 式王子たちに半ばかぶさるようにして、彼らの背後に祈祷師の背中が視えた。祈祷師の前には、狗、猿、雉、猪、熊をかたどった幣――白紙を切って長柄に挟んだ物――が、つぼの中の灰に突き刺してある。いざなぎ流の祭壇みてぐらだ。手前には、それらより大きな別格の人形の幣。おそらく打ち返しの用心に下してある、祈祷師の守護式王子だろう。

 ぶつぶつと唱えているのは式法か。


『死式 打つは 我ぞ』

 びゅうびゅうと吹く風にしなる細い木々の音。

呪詛すそ 打つは 我ぞ』

『悪念 打つは 我ぞ』

『死式 打つは 我ぞ』

『呪詛 打つは 我ぞ』

『悪念 打つは 我ぞ』



「……くそったれどもが! そこをどけ!!」



 首切り地蔵が少女の髪をつかもうと手を伸ばすのを見て、隼人はこぶしを硬く握り締めて式王子たちに殴りかかっていく。だが多勢に無勢だった。

 正面の狗神を殴り倒し、開いた猿神と雉神の間をくぐり抜け、前へ出ようとしたところを後ろから棒でしたたかに打ち据えられる。それはただの棒にあらず、神力のこもった法具である。一斉に振り下ろされたそれは、隼人の後頭部を打ち、肩を打ち、背を打ち、腰を打った。隼人でなければ最初の一撃で頭を割られ、体じゅうの骨を砕かれていただろう。

 足の間に差し込まれた棒に走る邪魔をされ、うつぶせに倒れかける。倒れたなら5神が一斉に石突を打ち込もうとするのが分かっていたために、両手でこれを防ぎ、そのまま転がって横に逃げようとしたが、それと見抜いた猿神によって、転がるよりも先に背の中央に石突を打ち込まれた。

 激痛に体が硬直した一瞬に、残り4本の棒の石突が無慈悲に振り下ろされる。

 歯を食いしばって堪える隼人の口から、血がしたたった。


 雉神が、隼人の髪をつかんで頭を持ち上げる。


 少女の涙に濡れた目が、隼人を見ている。

 激痛に朦朧とした揺れる視界の中、少女の震える唇が、「たすけて」と言葉を紡いだように見えた次の瞬間。



 少女の首が、ごとりと落ちた。



「……きさまああああああああああああああああああああああ!!!」



  殺してやる! と絶叫する隼人目がけて、熊神の一打が大上段から振り下ろされる。

 頭部を砕きかねないその攻撃に隼人が気付いている様子はない。

 虚を突き、その攻撃を防いだのは、背後から飛んできた白雷だった。


 白狐の白雷が熊神と、その向こうにいた狗神をはじき飛ばす。

「未来!」

「うん!」ぱん、と柏手を打ち、未来が祝詞を発する。「たてまつの柏手に、来たりましませ嵐神、神須佐能袁命かむすさのおのみこと……」

 強い突風が道を吹き抜けて、残る3体の式神を押しやった。


 よろめき、隼人の体から離れた瞬間をねらって、綾乃が手にした符で5体に雷を撃ち込む。雷の直撃を受けた式王子は、まるで陽炎のようにゆらゆらと揺れて消えた。


「安倍くん」

「安倍隼人! 無事!?」


 駆けつける2人の前、隼人はゆらりと立ち上がり、そして首切り地蔵の消えた、おびただしい流血だけが残った壁を食い入るように見つめ――吠えた。




「殺してやる!! きさま!! 術士め!! どこにいようと見つけだし、絶対に殺してやるからな!!」


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