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第15回

 西森が向かった先は陽太も知っている山小屋だった。


「ここ、おじちゃんのとこだったんだ」

 父との山歩きの際に何度か目にしたことがあったが、特別興味を引くところもない、ただの平屋で、しかもかなり古くて臭いにおいが漂ってきていたので、冒険しようと思ったこともなかった。

 だけど今は、そこが西森の目的地だと知って、そこであの骨や毛皮を使った何かが行われているのだと思うと、冒険心が大いにくすぐられた。

 一気に高まった期待でドキドキしながら小屋へと向かう。


 西森は小屋のドアにかけてあった南京錠を開け、中へ入ろうとしたところで陽太を振り返った。

「これを使え」

 ポケットをがさごそして取り出されたのは、白のマスクだった。

 新品じゃない。

 陽太は首を振って断った。

「……かなり臭いぞ」

「分かった」

 西森は、本当に分かっているのかと問いたげにじっと見つめ、小さくため息をついて自分はマスクをしてドアを押し開けた。


 ドアは半開きで止まった。その理由は床を見れば分かった。こすれてそれ以上進まない。ドアか床か、どちらかがゆがんでいるのだ。古い家にありがちなことだった。

 半分しか開かないドアと西森の影からのぞき見えた室内の様子に、陽太はわくわくが止まらなかった。

 壁は棚がずらりと並び、棚は薬瓶や本で埋め尽くされていた。天井からは山で採ってきたらしい香草が吊され、臭気の緩和に努めているようだが、しかし獣と薬品と血脂の臭いは消し切れていない。中央にはステンレスの作業台、足元には床が見えないほど大小の鍋やガスコンロ用の使用済みガスボンベが転がっていた。


 奥のガスコンロの上でぐつぐつと煮えたぎる鍋。

 ひどい臭いと熱気はそこからきている。


 鼻をつまみ、「くさーい」とか言いながら目をきょろきょろさせている陽太。西森は黙々と棚の上から大きな密封瓶を下ろして洗ってきた毛皮をそこに入れると、業務用の瓶――ラベルには生明礬きみょうばんと書かれていたが、陽太には読めなかった――から白い粒を入れ、塩と水をそそいで攪拌かくはんした。

「何してるの?」

「1週間浸ける」

「どうなるの?」

「こうなる」

 西森は台の下から別の密封瓶を取り出して台の上に置いた。瓶にはラベルがあり、ちょうど1週間前の日付とタヌキと書かれていた。

 中身を、西森は空いたバケツに移し始める。

「どうするの?」

「川で洗う」

 ふーん、と幾分興味の薄れた声で相づちを打った陽太は、次の瞬間視界に入った物に、一瞬で目を奪われた。


「おじちゃん! あれ何っ!?」


 西森のコートを引っ張り、後ろの棚の水槽を指さす。

 水槽の中では、モゾモゾとウジの山が動いていた。白くブヨブヨとした体が何重にも重なった隙間から、灰色っぽい何かがわずかに見えているが、それが何かは分からない。

「骨についた肉を食べさせている」

「え! そうなのっ?」

「ナイフでこそぎ取ったりするよりきれいに取れる」

 今、別の鍋でやっているように煮込む方法もあるが、あれは主に大型の獣向けで、ネズミといった小動物の小さな骨ならこちらのほうが効率的だった。何より手間がかからない。ウジは、ほうっておくだけで小さな隙間の肉まであっという間に平らげてくれる。


 西森は剥製師だが、それだけでは食べていけず、骨格標本も作っていた。野生動物を駆除して皮は剥製にし、骨は組み立ててマニアに売る。


「これは何の骨?」

「野ネズミだ」

 水槽に張り付いて、中をずっと見続けている陽太に、西森は提案した。



「奥の部屋にいくつか組み立てた物がある。見てみるか?」



 続き部屋を隠した仕切り布を持ち上げる。

 陽太は目をキラキラさせて即返した。

「うん! 見る!!」


◆◆◆


 夕方。町の病院から戻ってみると、陽太がいなかった。


 プールへ行く約束が壊れて相当腹を立てているのは母親にも分かっていたから、きっと友達のところへ遊びに行っているのだろう、と気軽に考えていたが、それにしても遅い。

 電話をかけてみると、誰の家にもいないことが分かった。


 一気に心配が高まって、捜しに行こうとした母親に、姉の美保子が「わたしも行く」と言った。

「あの子が怒ってるのは、わたしのせいだから」

「でもあなた……大丈夫なの?」

「うん。休んだから、もう平気」

 本当はあまり平気ではなかったが、これ以上母親に心配されるのも、はっきり言って負担だった。


 あれからもう8年もたつのに……こんなふうになるなんて、自分でも腹が立つし、情けないと思う。

 どうしてみんなみたいになれないんだろう。


 自分でもそうなのだ、まだ7歳の弟は、小さいながらももっといろんなことに腹を立てているのだろう。


「お母さんは村を捜すと言ったから、畑へ行ってみようかな」

 山崎家は農家から土地を借りて、家庭菜園を持っていた。途中の畑や田んぼなども一応のぞいて捜して、まだ畑仕事をしている人たちにも声をかけて訊いてみる。すると、山のほうへ歩いていく弟を見かけたという人が現れた。

「でも、もう何時間も前だからねえ。別のとこに行ってるかもしれないよ」

「ありがとうございます。一応、行ってみます」

 礼を言い、山へ向かった。


 プールに行きたがっていて、それがだめになったのだから、川へ行こうと考えたのかもしれない。弟なら十分考えそうなことだ。


 はたして川に着くと、少年の楽しそうな笑い声が聞こえた。陽太の声だ。

 河原で裸足になって、何かの上で足踏みをしている。


「陽太! ここにいた! もうっ、捜したのよ!」


 呼びかけて、そこで陽太が1人でないことに気付いた。

 西森がいる。


「……あ」

 ――美千惠のお父さん!


「お久しぶりです……西森のおじさん」

 目が合いそうになって、大急ぎ頭を下げた。

 胸がドキドキして、苦しくて。顔を上げられない。

「……お姉さんが迎えに来たぞ」

 西森が陽太に話しかける声がした。

「えー? もうちょっとやっちゃだめ?」

「だめだ。帰るんだ」

「まだきれいになってないよ? 途中だよ?」

「いいから。帰りなさい」

 それからも陽太がブーブーと文句を言って残ろうとする声が聞こえたが、西森は譲らなかった。陽太はしぶしぶ洗剤の泡がついた足を川の水で洗い流し、美保子と一緒に帰途についた。


「ちぇっちぇっ。せーっかく教えてもらってたのに」

「……何を?」

 目の前がぐらぐらする。気分が悪い、早く家に帰りたい。そんな思いを陽太に気付かれないように、美保子は必死に考えまいとする。少しでも気を緩ませると、あの日に戻ってしまいそうだった。

 頭部だけになってしまった美千惠を抱いて、泣き叫んでいた西森のおじさん。


 早く。早く部屋に戻りたい……。


「標本の作り方。

 ほら、これっ」

 陽太はそんな姉の様子に気付かず、無邪気にズボンのポケットから取り出した白くて細い骨を姉に見せようとした。

 よく見えるように手を上げる。

「……なに、それ」

「野ネズミのシッポの骨だって! これ、すごいんだよ? ウジが食べて――」

 次の瞬間、美保子は陽太の手を強く払っていた。


「やだ! 気持ち悪い!!」


 陽太は美保子の反応にびっくりして、その場に固まってしまう。

 すごくきれいで、もらえたのがうれしかったから、きっと美保子も自分と同じくらい喜んで、きれいだね、もらえて良かったね、と言ってくれるとばかり思っていたのだ。


 そうならなかったことが悲しくて。せっかくすっきりしていた気持ちがまたぐちゃぐちゃになってきて。だんだん涙が盛り上がってくる。

「……気持ち悪くなんか、ないよ」

 泣くまいと、必死にこらえて、茂みの中に飛んだ宝物を拾おうとする。しかし美保子がそれをさせなかった。


 ぐいっと手を引っ張って止める。

「そんなの探さなくていいから。ほらっ、帰ろう」

 陽太がいくらぐずって、いやだと言っても美保子は取り合わず、にぎった手も放さなかった。



 白い骨。

 ガラス。

 美千惠の首とそこから伝い流れる真っ赤な血。



 ――ああ、気分が悪い。吐きそう。



(……早く。早く家に帰らなきゃ……)

 美保子の頭の中には病院から出してもらった薬のことしかなく、陽太が「痛い。放して」と言う言葉も耳に入っていなかった。

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