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第14回

 山崎 陽太は憤っていた。


 山の入り口で拾った長い枝で茂みをバシバシとたたきながら歩く、その乱暴な動作にも表れている。蛇避けのための行為だが、枝を折り、葉を散らすほどに強く打つ必要はない。しかしそうしたい相手――小学3年生の幼い陽太にはっきりとした自覚はなかったが――が頭の中に浮かぶたび、茂みを打つ手の力も強くなる。


「……なんだよ、いっつも姉ちゃんばっかり」


 数時間前、「暑いからプールに行きたい。連れてって」と、陽太は母にねだった。

 村にプールはないから母親の車がないと行けないのだ。

『そうねえ……いいわ。準備なさい』

 母から許可がもらえたことに「やったー!」と喜び、さっそくプールの準備を始めた。水着、水泳キャップ、バスタオル。そういった物をビニールバッグに突っ込みながら、ふと思いついた。

『おかーさん、武士も誘っていいー?』

『いいわよ』

 との返事に、『じゃあぼく、電話するね!』と廊下にある固定電話に向かったところで、姉の美保子と出くわした。


 陽太はこの姉があまり好きではなかった。大抵の場合、暗くて陰気であまりしゃべらない。かと思えば、いきなり陽気になって早口でまくし立ててきたりする。そういうときの姉は大体気分が良く、おおらかで、陽太をからかってきたりもするが楽しくて、陽太は好きだった。

 だけどこのときの美保子は、前者だった。

 俯いたまま階段を下りてきて、無言で横を抜ける姉に、ああ、と早くも嫌な予感がしていた。


 美保子は8年前のバス事故で心に傷を負ってしまい、頻繁に悪夢を見、そのときの恐怖がぶり返すから医者にかかっているのだと説明を受けたが、幼い陽太には心の傷が何なのか、分からなかった。今もピンときていない。

 病気だと父も母も言うけれど、姉はどこも悪いように見えない。陽太が風邪を引いたときのように咳もしないし、熱があるようにも見えない。ただ暗い顔をして黙り込んで、部屋にこもっているだけなのに、両親はそんな彼女のことをとても心配している。

 そしてこうなると、いつも陽太は両親から透明人間のように扱われるのだ。姉しか見えなくなり、姉のことが全てに勝る。


 台所に入ってきた姉を見て、母は心配し、案の定『今からお姉ちゃんと病院へ行ってくるから』と言いだした。


 いつもそうだ、と陽太は思う。母も父も、いつだって姉を優先して、陽太の約束のほうが先だと言っても取り合ってくれない。

『お姉ちゃんは病気なのよ。陽太はいい子だから、我慢できるわよね?』

 今回もそう言われるのが分かりきっていたから陽太はふてくされて返事をせず、階段を駆け上がって、2人が車に乗って病院へ向かうまで部屋から出なかった。


 陽太が部屋にこもっても、母は姉を優先するのだ。


 猛烈に腹が立ち、陽太は山へ行くことにした。

 山は危険な生き物がいるから1人で行っちゃいけないよ、と以前から何度も言われてきた。行くのだ。


 言われたとおりいい子にしてたって、なんにもならない。


◆◆◆


 気が付けば、息が切れるくらい茂みを打っていた。足元にはちぎれた葉や小枝が散乱している。

「……暑い」

 ぐいっと汗を拭って、再び歩きだす。

 たしか、こっちに川があったはずだと。




 昔、父と魚突きに来た記憶を頼りに斜面を下りて、無事川へ着いたとき。川には先客がいた。

 大人の男性が川の中に膝の下辺りまで入って、かがんで手を動かしている。


 布か何か、黒かったり灰色がかったりした物を洗っている……?


 何を洗っているか知りたくて、河原からじーっと手元を見ていると、男性に気付かれた。

 振り向いた男性は、陽太も知っている人だった。

「えーと、西森のおじちゃん」

 顔は知っていたが、話しかけたのは初めてだった。両親からは「あの人には近づかないこと」と、村で姿を見かけるたびに釘を刺されていたからだ。

『もし呼びかけられても返事をしちゃいけないよ。近くに父さんたちがいたら、走って戻りなさい。決して彼と話しちゃいけない』

 すぐそれを思いだしたが、今はむしろ、両親が嫌っていることを率先してやりたい気分だった。


「おじちゃん、そこで何してるの?」

「……おまえは? 山崎の子、だったか」

 重そうな前髪が目の下に濃く影を落とし、疲れ切っているように見えた。

 声もカサカサに乾いたのどを通って出る濁った音で、微妙に聞き取りづらい。

「うん。山崎 陽太。7歳」

 西森は丸めていた背を正し、手に持っていた物を横に下ろしてあったバケツの中に入れると、バケツを手に岸へ戻ってきた。

 髪はぼさぼさ、無精ひげの伸びた黒い口元、何が付着しているのか分からない汚れた服と、近くで見るとますます浮浪者然とした姿に陽太は内心気圧されて、やっぱり逃げたほうがいいんじゃないかと思ったが、ぐっとこらえてもう一度訊いた。

「おじちゃん、何してたの?」

 さっとバケツの中をのぞき込む。

「これ……骨? と、何?」

「……毛皮だ」

「洗ってたの?」

「……そうだ」

「どうして? どうして洗ってたの?」

 陽太の興味は尽きない。

 西森は少し考えるような間を置き、答えた。

「……汚れているからだ」


 専門的なことを話しても子どもには分からないだろう、との判断からきた返答だった。

 事実、陽太は次の瞬間にはもう質問したことも忘れて、西森の返答には興味がないように見えた。バケツの中の、濡れてベショベショになっている黒と灰色の毛皮は避けて、その下に見えている白い骨へ指を伸ばす。

「わー、すっごく軽い。カチンコチンだし、石みたいに見えるのに。ふしぎー」

 幾つか小さい物を手のひらに出して指でつついている陽太に、西森は「やめろ」とは言わなかった。勝手に触るなとも言わず、黙って陽太の好きなようにさせていた。


「ぼく、骨に触ったの初めて。おじいちゃんが死んだときも、熱くて危ないからって、触らせてもらえなかったんだ」

 火葬場で、焼かれて骨になって出てきた祖父の骨。つぼに入れるため、ためらわず砕いていった男の人にびっくりしたが、あれも、こんな手触りをしていたんだろうか。

 たぶん、きっと、そうだ。

 太陽に透かせて眺めながら、そんなことを考えていると。


「……もう、いいか」

 西森がつぶやいた。

「あ、ごめんなさい」

 しぶしぶ骨をバケツに戻す。

 陽太を避けて歩きだした西森に、陽太があわてて言った。

「それ、どうするの? ぼくも行っていい?」

 西森は振り返り、

「親はどうした? 1人か?」

 と訊いた。

 とたん陽太は忘れていた朝の出来事を思いだして、むっとした表情になる。

「そうだよ! 悪いっ?」ツン、とそっぽを向く。「お母さんは、ぼくより姉ちゃんのほうが大事なんだ!」

 そう吐き捨てながらも、怒りながらもどこかいじけているようにも見える姿に、西森は目を細めた。


 遠い昔。自分の前で同じような態度をした、記憶の中の幼い少女が重なる。

 少女もちょうどこのくらいの背格好で、年も7歳だった。


「…………」

 無言で歩きだした西森の後ろについて陽太も歩く。しかし陽太がついてきていることに気付いた西森は立ち止まり、あごで川を指した。

「おまえは、ここに用事があるんじゃないのか」

「あ。ううん、もういいんだ」

 危険と教えられていた川で川遊びをしてやろう、そして帰ったら、全然平気だったと自慢するつもりでいたのだが、そんな考えはすっかり色あせて魅力を失っていた。

 こっちのほうが、きっとずっと面白いに決まってる。


「待って、おじちゃん!」

 再び歩きだした西森を見て、陽太は急いであとを追いかけた。


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