●第3話 赤い雨の廃病院
「その名の由来は、ここが廃病院になってから起きたことに起因してる」
雑草が生い茂る道を進みながら田中が説明をする。ここは病院へ直通の私道だが、10年以上手入れされていないにもかかわらず、さほど荒れていない。
「意外と道がしっかりしてるだろ。つまり、それだけまだここを通るやつらがいるってことだ。運営中に特に何があったってわけでもないんだが、廃病院って言葉だけでオカルト好きや廃墟マニアのやつらはそそられちゃうんだろうな」
そこで一度言葉を切ると、田中はかばんの中から自販機で買った天然水を取り出してごくりと飲んだ。
額の汗を拭い、話を再開する。
「そんで、ある夏の夜、きもだめしにやって来た男女のグループが、ひょんなことから地下の一室に閉じ込められてしまった。誰も彼らの行方を知らず、救助が来たときにはすでに手遅れだったんだ。
なぜ赤い雨かっていうと、そいつらの遺体が発見されたとき、壁に無数の赤い筋が描かれていたから。どうやら最期に気が狂って壁をかきむしったせいらしい。それが血の雨のように見えることから、ついた名前が『赤い雨の廃病院』。
彼らの怨霊がまだそこにとどまってるのか、何度消してもその赤い筋はにじみ出て、数日後には元通りになってるそうだぞ」
怖いだろー、と3人を振り返って、ひゃひゃひゃと笑う。対する斉藤の返しは、
「一体どこからそういった話を仕入れてくるんだか」
という、半ば感心、半ばあきれたものだった。
確かにぞっとする内容だ。しかし真夏の真っ昼間の暑さにやられながら道を歩いている最中に言われても、頭の中は「早く日陰に入りたい」という考えでいっぱいで、いまいち怖さはぴんとこない。ぴんとこなかったが、しかしそれも
2棟4階建てのその廃病院は、10年以上手入れされることなく風雨にさらされたせいだろう、元は白かったに違いないコンクリート壁は全体的に黒ずみ、黒カビとコケに覆われていた。窓は全て割れている。その割れた窓から見える中の様子はといえば外と大差なく、入り込んだ土や埃から生えた雑草、雨染みのできた壁、垂れ下がった電灯に放置された戸棚や机、椅子、書類ケースなどが台風一過といった様子で散乱しているのを見ると、確かに背筋にぞくりとくるものがある。
「……雰囲気があるな」
「だろー」
3カ所目にして初めて眉をしかめた斉藤の反応に、田中がうれしそうに胸を張る。そして「さあ入ろうぜ!」と入り口へ回り、自ら率先してガラスが全壊したドアをくぐった。
「あ、おい。不法侵入――」
「何いまさら言ってんだよ。私道入ってる時点でそうなってるだろー」
それもそうか、と憂喜も思い直して割れ残ったガラスをまたいで入る。中は薄暗かったが、真昼の強い日光のおかげで間接的な明かりでも十分廊下の端から端まで見通せた。
掲示されていた平面図を確認し、階段へ向かう。
崩壊した壁と天井で瓦礫だらけになっている廊下を、つまずかないよう俯いて歩きながら、誰にともなし、憂喜がつぶやいた。
「懐中電灯の電池が切れて、暗い地下に閉じ込められたやつらが出口を求めて必死に壁を引っかくとか。……ぞっとするな」
叫んでも声は外まで届かない。亡くなったということは、誰もここへ来ることを言っておくなり書き残しておくなりしてこなかったのだろう。助けが絶望的な中、やがて懐中電灯の電池も尽きて、暗闇の中を手探りで歩き回り、爪が割れ、指が傷ついてもひたすら壁をかき続ける――そんな姿が浮かんできた憂喜は、そんな霊たちがいるかもしれない場所へ行くのかと
ホラースポットへ行くというのは、そういうことだ。
隼人が乗り気じゃなかった意味が今になってわかる。あまり深く考えていなかった自分の思慮の浅さに歯がみする思いで、隼人はどうかと振り返ると、立ち止まった彼に気付いた隼人が顔を上げた。
「……なんだ?」
「いや、べつに」
よかった、いつもの隼人だ、とほっとしたのもつかの間。
「あんまりそこらへ視線を投げるな。目が合うと面倒くさいことになるぞ」
すれ違いざまそんなことを言って、追い抜いていく。
憂喜は急に寒気を感じて、背筋が凍りついた。
そうだ、ここは病院。亡くなった者がいるのは間違いない。憂喜には視えないが隼人には視えるレベルの霊がそこら中にうようよいてもおかしくないのだ。
そう考えが及んだとたん、無数の霊たちの視線が自分のほうへ向いている気がして、胸がざわめく。
「ま、待てよ」
憂喜はあわてて隼人を追った。
しばらく歩いたところで斉藤が疑問を口にした。
「ここって本当に出るのか?」
今は昼間の明るさで、どこからも闇の暗さなどは感じられず、ただの廃墟にしか見えないのだから無理もない。
対して田中は
「地下に行けば、何か起きるかもしれないぞ!」
と、期待に胸を膨らませた様子で喜々として言う。
地下へ下りる階段は、さすがに真っ暗だった。光は踊り場までしか届いていない。
こんなこともあろうかと、と田中が懐中電灯を取りだした。気乗りしないが、田中と斉藤だけを行かせるわけにもいかないと、先頭を行く田中の後ろについて憂喜も下りる。隼人はと肩越しに盗み見ると、少し退屈そうに小さくあくびをしているのが分かって、少し緊張が解けた。
とはいえ、いよいよ問題の地下フロアだ。
どんな光景が広がっていたとしても驚かない、平常心だと覚悟してフロアに出た憂喜だったが、いざ現場に着いてみれば、意外とそうでもなかった。
霊はたしかにいた。しかし想像していたような怨嗟に満ち満ちた怨霊ではなく、むしろ明るい雰囲気さえ漂っていた。誰も彼も明るくて、4人の訪問を喜んで歓迎している様子だった。というか、めちゃくちゃ有頂天になってはしゃいでいた。
憂喜に霊の言葉は聞こえないが、霊たちの挙動、身振り手振りからして「やっべー! 今度は4人来たぞ、やっべー!」みたいなことを言っているのではないだろうか。
目をキラキラさせて自分たちの周りを飛び回りながら騒ぐ無邪気な霊たちを視て、すっかり呆気にとられてしまっている憂喜に、隼人が追い抜く際に軽く肘を入れる。それで憂喜もさっきの隼人の忠告を思い出し、視線を彼らから外した。
だがその動きがむしろ気を引いてしまったか。男の霊がやってきて、じーっと近くから顔をのぞき込んでくる。
(視えない、視えない。何も視えてない……)
だから早くどこかへ行ってくれ、と内心では顔を背けていた。
一方隼人はといえば、霊たちがどんなことをしようが全く無反応。フルーツトマト味と書かれた牛乳パックをストローでズコーっと吸っている。
霊たちが、なーんだと、つまらなさそうな表情で離れて行きかけたときだ。
懐中電灯でそこかしこを照らし見しながら「何も起きないなあ」とかぶつぶつつぶやいていた田中がいきなり2人のほうを向いて訊いてきた。
「なーなー、おまえらだったら何か視えてるんじゃね?」
ばかやめろ! と憂喜は内心パニック。
案の定、離れかけていた霊が止まってこちらを振り返った。田中や斉藤の周りにいた霊たちまでが好奇心に目をギラギラさせて憂喜と隼人の周りに集まり始める。
――えー、あんた、俺のこと視えんの?
――俺は? 俺のことは?
――ねえねえっ、これみっえるー?
血をだらだら流して見せたり、滑稽な表情を作ったり。なぜここに来たか、どんな目にあったか、どんな死に方をしたか、心残りなどなど、口々にまくしたてて注意を引こうとする。そして、そうすることでますます興奮したのか、霊たちが飛び回る周囲で物が浮いたり、室内なのに風が吹いたりまでし始めた。
「おー! すげーー!!」
ポルターガイスト現象に興奮しきりの田中を、「危ないぞ」と壁に避難した斉藤が引っ張り寄せる。
やがて、隼人にしなだれかかり、
――ねえ、ちょっと聞いてよー。アタシ、もうここに飽きちゃった。でも出たいのに出られないのよー。アナタ、どうにかしてくんない?
と言い募る霊が現れた。
――ここから連れ出して……お願いよ……何でもするから……!
ついに霊は感極まった様子で声を震わせた。それは、本心からの訴えに聞こえた。
隼人はその言葉に、その霊にだけ分かる程度の、ほんのわずかに反応を見せた。が、すぐに冷たく「無理だ」とつぶやいた。
その霊はしばらくその場に立ち尽くして、離れていく隼人の背中をじっと見つめていたが、やがてしぼんだ風船のように頼りなくふらふらと揺れて、姿を消した。
それからも興奮した霊の騒ぎは収まることなく、病院を出るころには隼人は強いストレスで見るからに疲れ果てていた。
◆◆◆
「さっきのすごかったなー!」
霊現象で、物が浮かんで動き回るのを目撃した田中は、あれからバス停まで戻り、バスに乗車した後も、いまだ興奮冷めやらずといった様子だった。
対照的に、隼人は牛乳を飲む気力もない様子で座席にだらりと座っている。
「お疲れ」
ねぎらう憂喜を隼人はじろりと前髪の間からにらみ――しかしそれも長くは続かず――疲れきった様子でぼそっとつぶやいた。
「……絶対、もう二度と付き合わねえ」
「そりゃ、おまえがそう思うんならそれでいいけど。正直、俺も今、似たような気分だし。
でも、田中は次も計画してるみたいだぞ。今回だけじゃ回りきれないからって」
ちらりと、別席の田中を見るよう視線で促した。
田中はまださっきの廃病院でのことを、楽しそうに笑顔で隣の斉藤に向かって話している。
あの田中に、「次はおまえだけで行け」と言えるのか? と憂喜の目は言っている。
「……くそ」
隼人はずるずる背もたれを滑ると観念したように小さくうめき、くしゃりと前髪をかいた。