●第2話 子泣き峠
次に4人が向かったのは『子泣き峠』だった。
当然ながらこれは正式名称ではない。正しくは
昔々、この峠は暗闇峠と呼ばれるほど昼でも暗く、夜には伸ばした手の先も見えないほど真っ暗な場所だった。山に棲む人喰いの獣を恐れて地元の民も山に入れず、隣村へ行くにもしぶしぶ山を迂回していたのだが、あるとき、どうしても山を越えねばならないという男が現れた。この先の村に住む母親が危篤状態で、迂回していては間に合わないと、男は切羽詰まった思いで村人の制止を振り切って夜の山に足を踏み入れるが、案の定、あまりの暗さに道を間違えて迷ってしまった。
山犬に囲まれ、死を覚悟した男が必死に山の神様に祈ったそのとき、突然頂上から白く光る狐が降りてきて山犬たちを追い払い、その後、白狐は男を導くように木々の間を跳ねながら飛んで行った。白狐の跳ねた所は枝が折れていて、その枝が道しるべとなり、男は峠を抜けることができたのだという。
それ以降、折れた枝を頼りに進むことで人々は安全に峠を越えることができるようになり、ここは枝折峠と呼ばれるようになったという伝承があるのだが、この由来を知る者は今ではほとんどおらず、地元の者の間でも、ここは『子泣き峠』で通るようになってしまっている。
それくらい名の知れた昔からある古いホラースポットで、これまでオカルトに全く興味のなかった斉藤でも「子どものころ耳にしたことがある」と言うくらいだ。ただし、クラスメイトのうわさ話で耳にしたことはあっても興味は湧かず、行ったこともなかったので、「こんな近くにあったとは知らなかった」とバスを降車しながら斉藤は言った。
目の前には山の中腹に広がる峠の景色が広がっていた。舗装された二車線道路が緩やかに曲がりくねり、右手方向には海が見える。太陽の光で沖のほうの水面がキラキラ輝いていて、とてもきれいだ。
道も、先ほどのトンネルとは異なり、今回は下り坂で歩きやすそうだった。
「そんなに有名な場所なのか」
憂喜が感想を漏らすと、田中が振り返った。
「ここは地元の者なら真っ先に思い浮かべる怪談の定番スポット――って、そういや憂喜は去年転校してきたんだっけか」
「ああ。この辺も来たのは初めてだな。
隼人は?」
と最後尾を歩く隼人に話を振ると
「この辺りに来たことはない」
とだけ答えた。
バスで片道2時間近くの県境の山だ。さっきのトンネルのような旧道でないとはいえ、特に何もない山越えの道。この道を使うのは山間の村の者くらいで、隣県に用がある者は便利な下の新道を使う。事実、バスに乗っている間も対向車はほとんど見られず、バスの本数も1時間に1本。
何もない山の中腹でわざわざ降車して歩くなんていうのは、それこそ4人のように峠を目的とする者だけだろう。
「それで、どんな由縁の霊が出るんだ?」
憂喜の問いを受けて、待ってましたとばかりに田中が話し始めた。
「子泣き峠って言うんだけど、文字どおり、赤ん坊の泣き声が聞こえるらしい。だけど視えるのは赤ん坊じゃなくて、母親のほうな」
「へえ」
「50年くらい前、この峠で事故があったんだ。赤ん坊の夜泣きを気にした母親が、早く病院へ連れて行こうとあせって車を飛ばしたのが原因らしい。この先のカーブを曲がりきれず……ほら、あそこのガードレールの切れ目のとこ。あそこから海へ落下したんだと。母親は赤ん坊を抱えたまま、最期まで車外に出ようともがいていたらしい。引き上げた車内から赤ん坊を抱きしめた姿で見つかったって。無念だよなあ」
田中が指さした場所へと視線を向けると、白い塗装が剥げて赤茶色にさびついたガードレールが途切れている箇所が見えた。潮風にさらされて風化していく途中の鉄の唐突な切れ目が、まるで悲しい事故の記憶を彼らに伝えようとしているかのようだ。
「で、夜にこの道を通ると、あそこに泣く赤ん坊を抱いた女が立っていて、病院までヒッチハイクしてるらしい。車が止まると「下の町の病院まで連れていってくれませんか」って頼むんだって。それで乗せてやると、いつの間にか車内から母と子の姿は消えていて、母親の座っていたところには海水の水たまりができてるっていう、わりとよくある怪談オチ――何だよ斉藤!」
田中が話を終えたとき、斉藤が田中の肩を指でトントンと叩いた。
その指で今度は後ろの憂喜をさす。
憂喜はポロポロ涙をこぼしていた。
「わーーっ!! どうした、憂喜っ!」
驚いて憂喜のもとへ駆け寄る。
「……ごめん。今その手の話は、俺に効く」
答える間も、ポロポロ、ポロポロ涙がこぼれて……。
「気付かなくてすまん! こんなとこ選んだ俺が悪かった!」
つい1カ月ほど前、憂喜の身の上に起きた出来事を思い出して、今の憂喜には母子物は駄目だったかと、あせりまくってひたすら謝罪し「もう帰ろう」と言う田中とボディバッグから取り出したハンカチを無言で差し出す斉藤と。
3人がわちゃわちゃやっている間に隼人は隼人で何かしていたらしい。
いつの間に追い抜いていたのか、ガードレールのほうから戻ってきた隼人が、憂喜へと歩み寄り、
「安心しろ。あそこには
と、淡々と告げる。
その言葉に憂喜は驚きながらも、このことで隼人はうそをつかないと分かっているから「……ありがとう」と答えた。
2人のやりとりを見ていた斉藤は、また離れていく隼人を追って訊く。
「さっきあそこで何をしていたんだ?」
隼人は少しだけ間を置いて、答えた。
「何もしてない」
「何も?」
「俺は霊を上げるなんてできないからな。
霊はどこにもいない。消滅したのか、それとも上がったのかまでは分からない。
50年だ。怨霊でもない限り、ただの霊にはそれだけのエネルギーを保てない。それが見えているということは、場に焼きついた記憶が、たまに波長の合った者に残像を見せているのかもしれない。それだけだ」
隼人の説明を聞いて、斉藤は先日の記憶を刺激されたのか、いたましげな表情を浮かべたが、すぐ思い切るような表情に戻して「そうか、ならよかった」とうなずいた。
憂喜の傍らで話を聞いていた田中も、ほっとした顔になる。
「だってさ。
でも憂喜、やっぱり無理するなよ」
憂喜は最後の涙をハンカチで拭いて、それから深呼吸をするように深く息を吸い込んでから言った。
「もう大丈夫。……ありがとう、みんな」
そうして4人は、来た道を戻るために再び歩き始めた。
体の向きを変えた一瞬、憂喜は途切れたガードレールの所に立つおぼろげな女性の姿を見た気がして足を止めたが、すぐに思い直して3人のあとを追う。
あれは残像。光のつくった幻に過ぎないのだと――。