「おい」
との隼人の声に、3人ははっと正気に返った。床から湧き出てきた怪物の姿にすっかり気圧され、知らぬうちに後ずさっていて、隼人と距離が開いていることに気付く。
「こいつはまだ動けない。今のうちにおまえたちは遺――例の
そして「持って行け」と白狐の入った試験管を憂喜に向かって投げた。
「は? 何言ってん――」
「わかった」
目を丸くする田中と対照的に、憂喜は即応した。「ほら行くぞ」と田中と斉藤を引っ張って行こうとする。だが田中は納得しなかった。
「放せよ! あいつだけ残していけるわけねーだろ!」
憂喜の腕を強く振り払い、隼人の背中を指さす。
「いいんだよ! あいつは――」
その先を自分が口にしていいものか、憂喜はためらったが、一瞬だった。怪物と対峙している隼人の背に、「走れ」と言った、あの日の隼人の背中が重なった。
「あいつは、絶対大丈夫だ! 前のときもそうだった!」
信じろ! と強い意を込めて見つめる憂喜に、それでも田中が反論しようとしたときだ。
「行くぞ」
斉藤が田中の肩をつかんでせき立てた。
だが斉藤も納得しているわけではない。状況を照らし合わせ、今は言い争っているときではないと判断しただけだ。田中の頭上から憂喜を捉えた視線が「あとで聞かせてもらうからな」と無言の圧をかけている。憂喜は目を泳がせ、何かごまかせる手はないかと考えたが、結局思いつかずにしかたなく頷いた。
「なんだよ! おいっ!」
1人意味がわからないままの田中がまたもや腕を外させようともがくが、斉藤の腕はしっかり田中の肩をつかんでいて外れない。
「俺たちが彼女の遺体を見つければ、それだけ早くあいつも逃げられる」
麻衣子に気取られないよう小さな声で伝えられた言葉には、田中も納得せざるを得なかった。
「……くそ!
安倍! 危なくなったらさっさと逃げるんだぞ! いいな!」
自分を心配する言葉をわめきながら斉藤に引きずられていくその姿を肩越しに見た隼人は、小さく苦笑する。そしてあらためて麻衣子であった
麻衣子がここに現れるだろうことは予想できていた。大抵の場合、怨霊は生前に縁ある場所にしか身を置くことができない。麻衣子にその自覚があるかは不明だが、坂口真の傍らにいられなくなった以上、麻衣子が居心地よく感じる場所は、母親のそばか異界駅だ。力を使い果たした彼女が新たな力を求めて異界駅に来る可能性のほうが高く、そこにいる隼人を見て、彼女の居場所を奪った者の1人である彼に怒りの矛先が向かうのも当然。
ただ、もう少し時間がかかると踏んでいたのと、他の怨霊を取り込んで化生するのは想定外だった。
「おいおまえ。おまえは自分が誰で、ここにどうしているか、分かっているのか」
最初のころに比べればかなり緩やかになってはいるが、頭頂部は今にも天井に届きそうな上、山のような巨大な体からは常に泥土の塊が崩落する土砂のように流れ落ち、そうしてあちこちが崩れる一方でどこかが増殖している。もはや元が人であったことをうかがわせる箇所は肉塊から出ている胸部から上しかなかったが、しかしそれすらも今、ぶよぶよとした肉塊に飲み込まれる寸前に見えた。
あれはどこまで『喜多本麻衣子』なのだろうか――そんな疑問が浮かぶのも当然だろう。
『うるさいいいいいい!』
ただれてひび割れ。放射状に裂けた口で、
『おまえ! おまえたちのせいだ! おまえたちさえいなければ、わたしはまた真くんと暮らせるんだ!』
肉塊から生えた4本の巨大な腕がぶうんと振られ、テーブルの上の蚊をたたきつぶそうとするように隼人の頭上からこぶしが振り下ろされた。ぶよぶよとした巨体の見た目とは裏腹に、その動きは敏捷だった。だが隼人を捕らえるほどではない。
『避けるな!』
かわした隼人を見て癇癪を起こした子どものように叫び、さらに両手を使って上下からたたきつけ、跳んで避ける隼人を宙でわしづかもうとした。
山のような巨体は死角だらけのように見えて、その実そうでもない。麻衣子が発散している黒靄、そして全身を覆う顔たちが吐き出す黒靄が、時に
ただ、隼人は化生した怨霊を相手にするのはこれが初めてではないし、麻衣子が最強というわけでもない。
「俺を倒したところで、おまえは坂口真の元へは帰れない」
麻衣子からの攻撃のことごとくを息一つ切らさずに避け、淡々と、隼人は言う。
「今ごろやつは正気を取り戻しているだろう。そして38年間、おまえに何をされてきたか、理解し始めている。やつは二度とおまえを受け入れない。
やつはおまえを憎んでいる」
『そんな……! そんなはず、ない! 真くんはわたしを愛してるの! わたしたちは真実の愛で固く結ばれてるんだから!!
何も知らないくせに、勝手なこと言わないで!!』
激怒した麻衣子の攻撃が正面から隼人を襲う。それを、隼人は後方に跳んで避けた。
「それはおまえの幻想だ。おまえが力でやつの自由意志を奪い、身勝手な願望を押しつけたにすぎない。
おまえがやつにしたのは、ただの暴力だ」
『違うったら!!』
麻衣子の繰り出した闇雲な攻撃が、このとき初めて隼人に届いた。黒靄がほおをかすめて飛び、巨大な腕が隼人を張り飛ばす。
その攻撃を隼人は目で追えていたが、避けようという動きをせずにこれを受けた。結果、張り飛ばされた先で壁に背をしたたかにぶつけることになったが、両腕を挟んでガードしており、ダメージはほとんど負っていなかった。
しかし無傷でもない。
壁に手をつき、体をふらつかせながら起き上がった隼人を見て、隼人を見て、『あはははははっ』と麻衣子が心底から楽しげに高笑う。
その姿に、今の彼女が何を感じているか、隼人は分かる気がした。
自分は誰より優れていて、できないことはないのだという完全無欠の自己肯定は、意識を高揚させ、心を酔わせる。
隼人もそうだった――昔。
こうしてふとしたときにあのころのことを思い出すと、隼人は決まって居心地の悪さ、息苦しさを覚えた。そして同時にほっとする。あのころの自分とは違うと確認できて。
では麻衣子はどうか?
麻衣子はその力を今手にしたばかりで、それがどんなものか、威力も限界も分かっていない。
はたして今また隼人を全力で殴りつけようとしてかわされ、床にたたきつけられた腕は、すり鉢状にコンクリートを破砕したその衝撃を直接麻衣子へ伝えた。
『……いやああああああっ! 痛っ、痛いーーーっ!!』
引き戻した腕を抱いてもだえる姿は隙だらけだった。
息を吸い、吐いて。一気に距離を詰めようとする隼人に向かって顔たちの吐き出す黒靄の触手が襲いかかる。が、そのことごとくが本気を出した隼人の動きについていけず、肌にすり傷をつけることすらできない。
『来ないで! いやっ!』
それまでと打って変わった隼人の動きに麻衣子は身震いし、残る3本の腕で彼の接近を阻もうとする。
隼人は眼前に現れた3本腕の防壁をやすやすと砕いて肉塊の上に着地すると、隆起した
呪詛の黒靄を吐き出していた怨霊たちが、麻衣子から剥がされた瞬間苦悶の声と表情で霧散していく。とはいえ、それはあくまで一部に過ぎず、まだ肉塊の表面には無数の怨霊たちの顔が浮かび上がっている。それらを隼人は黙々と引き剥がしていった。
『やめて! 痛いっ! 痛いいいいいいいいいーーーーっ!!』
表皮を剥ぎ取られる激痛に麻衣子は悲鳴を上げ、血走った目で必死に腕や黒靄を使って隼人を引き離しにかかったが、それは到底止められるものではなかった。