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第17回

●ナイトフォール(現実世界 2024/07/19 AM2:00)


――痛い。痛い、痛い。


 真の部屋から離脱した麻衣子は、ナイトフォールのたそがれの空を飛んで逃げていた。

 彼女は自分が追われているかどうか確認できない。異界であるナイトフォールへ逃げ込み、こうして飛び続けて距離を取っている自覚はあっても、追われているという感覚を拭い去ることができなかった。

 麻衣子の頭には今も彼女を断じる綾乃の無慈悲な声が響いていた。彼女が召喚した、麻衣子を消滅させる力を持つ存在・伊邪那岐神の神意の圧倒的な力を思い出すたび震えが走る。

 今はどちらも周りにないと知っていながら、それでもそれらはいまだ彼女にまとわりついて離れない。


 ――痛いよお。


 綾乃に砕かれた左腕を押さえた。そこに腕はなく、残った肩口――そこは固く閉じて、血の一滴も流れてはいない――から黒い靄がしみ出ているに過ぎない。

 痛みはない。あるはずがない。けれども目の前で自身の腕が砕け散ったときの衝撃はすさまじく、それはとても痛みに酷似して、今も麻衣子を腹の底からおびえさせる。


 痛い、怖い、痛い、怖い。


 それゆえに、今の麻衣子に止まるという選択肢は考えられなかった。いつ、どこからまたあの恐ろしい声がしてくるか分からない。もうあの力は使ってしまった。今の自分には力はほとんど残っていない。今度は逃げられないかもしれない……!


 逃げなければ! 逃げて、どこかに隠れないと! あいつらが来る! 殺されちゃう!

……でもそうしたら、もう真くんに会えなくなっちゃうかも……。


 どうしてこんなことになってしまったんだろう。ただ真と2人、あの部屋で、静かに暮らせたらそれで十分だったのに。

 彼の病気も、あいつらを捧げれば簡単に治せたはずだった。


 真くん。会いたいよ。やっぱりあなたに会えなくなるなんて、いやだ。

 


 駅へ行こうと思った。あの不思議な駅なら、きっと今度も力になってくれるに違いない。

 あいつらさえいなくなったら、また真くんと一緒に暮らせる。



 麻衣子は突き進んだ。ひたすらに。あんなにも逃げだしたがっていたはずの、よいのみや駅へ向かって。

 一心不乱の横顔に、そのことに気付いている様子はなかった。



◆◆◆



 言葉には出さなかったが坂口真のマンションで召喚を待つ間、隼人は「遅すぎる」と、ずっと悶々としていた。

 たかが最終電車に乗って目的の駅で降りるだけなのに、なぜこんなにも時間がかかるのか。

(あいつらのことだ、どうせ初めての異界駅でテンション上がって、観光気分で見て回っていたんだろ)

 それは大いにあり得た。特に田中が。他の2人を先導し、ちょっとだけだからと力説して降車する姿が目に浮かぶ。


 あんな気がかりな状況でマンションを離れなくてはいけなかったこともあって、渦をくぐったとき、隼人は文句を言ってやる気満々だった。

 3人の姿を見るまでは。


 憂喜、田中、斉藤の3人は、見るからによれよれだった。制服は土と草の汁で汚れ、乱れた髪にも葉っぱが引っかかっている。大きなけがはなかった。手や頬に擦り傷くらいは負っていたが、それも流血するほどではない。

 白狐がつくった召喚の渦から現れた隼人を見て本気でほっとしている様子の3人に、隼人は一瞬絶句して、それまで考えていた文句を全て忘れてしまった。


「おまえらその格好……何があった?」


 実は、と憂喜が――目的外の駅で降りてたなんて、余計なことをしたとの自覚がある分、少々後ろめたそうな表情で――ナイトフォールに入ってからの一部始終を簡潔に語る。そして案の定、最初は驚いて毒気を抜かれていたようだった隼人が、彼らが2駅乗り過ごして、牛頭やら陰鬼いんきとかに道中追われながら走って戻ってきたという、自業自得としか言いようのない行動を聞いているうちにだんだんと機嫌を悪くしていくのを直視できず、視線をあちこちさまよわせることになった。


「戻れ」

 との隼人の命令に、めずらしく素直に従って白狐が試験管の屋代へと戻った。きゅっとゴムのふたをしてから、隼人は憂喜に冷たい視線を投げる。

「――それで?」

「えーと。……遅くなって、ゴメン」

「おまえは――」

 カッとなって雷を落とそうとした隼人だったが、すくめた彼の首についた擦り傷、土と草まみれの姿があらためて目についた瞬間に怒りは蒸発して、またも言葉を失ってしまい。結局、はーっとため息をついただけだった。

「もういい。分かった」

 これでこの話は終わりだと、打ち切る姿勢を見せてくれたことにほっとする。

 そして憂喜と代わるように、2人のやりとりを後ろから見ていた斉藤が、彼にしてはめずらしく言いづらそうな声と表情で隼人に尋ねた。


「なあ……。彼女を助けることは、本当にできないのか?」


 いきなり何を言い出すんだこいつ? と眉をひそめた直後、隼人の脳裏にアレスタの言葉がひらめく。


『お友達の斉藤くん。妹さんが、いじめの被害にあっていたそうよ。ちょっと悪質過ぎて、結局妹さんは祖父母のいる他県の中学へ転校することになったらしいわ』


 だから憂喜はアレスタの誘いを断って、斉藤たちと行くことを選んだのだろう。今も、突然そんなことを言いだした斉藤に驚く様子を見せず、むしろ気遣うように田中とともに彼の両脇に立っている。田中も憂喜も、事情を知っているのは間違いない。


 肩越しに、あらためて斉藤を見上げた。そして、普段は飄々として彼らの後ろをついて歩く無口な男が弱気になっている姿から、ふいと視線をそらして答えた。

「不可能だ。あの女はすでに怨霊化している」

「それは……分かってる。だけど、何かあるんじゃないかって、考えてしまうんだ。気付いていないだけで、彼女を救える方法があるんじゃないかって」

 焦燥をにじませた斉藤に「あれはおまえの妹じゃない」と言うのは簡単だ。「おまえは彼女を救えなかった妹の代替と見てるだけで、罪悪感を消したいだけだろう」と。


 しかし隼人は新参者だ。最近になって4人で行動することが多くなってきたものの、まだそういった繊細な事情に知った顔で踏み込めるほどの仲ではなかった。


 逡巡する短い沈黙の後、それでも隼人は何事かを口にしようとする。が、次の瞬間、何かに気付いた様子でその動きを止めた。

 ばっと振り返る。


「――来る」


 隼人の言葉に、3人に緊張が走った。

 隼人の視線を追うと、彼は2メートルほど先の床を見つめているようだった。しかし他の3人からすればそこは何の変哲もない、ただの薄汚れた灰色のコンクリートの床にしか見えない。

「おい、おどかすなよ」

 田中が場の空気を戻そうと試みた。そうして隼人の肩に手をかけようとして、はたと気付く。前髪の隙間からのぞく隼人の目が、金色に変わっている?

 横の大きな窓から差し込むたそがれ色をした日の光のせいかと目をしぱたく彼の前、ふわりと隼人の髪が微風を受けたように軽くなびいた。その動きに連動して前髪の一部が色を失い、頭頂部からじわじわとにじむように白銀色に変わっていくように見える。

 これも、光による目の錯覚?

「なあ、安倍――」



「ぅわーーーっ!!!」



 だしぬけに憂喜が大声を発して田中の言葉をさえぎった。田中と斉藤の腕を抱き込んで後ろに引っ張る。

「おまえまで! 何なんだよ、いきな――」

 憤慨気味に腕を振り払った直後。憂喜が目撃したを、田中も見てしまった。

 瞬間、言葉は消えた。田中の面から、さーっと血の気が引く。斉藤も無言で顔をこわばらせている。


 さっきまで何もなかったはずの床から、黒い靄が立ちのぼっていた。

 それが本物の靄であるならば、発生地から離れて広がるにつれて密度を薄れさせ、外気にまぎれて消えていっただろう。しかしその黒靄は風もないのにゆらゆらと揺れ、まるで自らの意思でそうしているかのようにみるみるうちにその勢力を拡大していき、より濃く、より大きな触手と化して空間を浸食していた。


 床はもはや黒い沼と化していた。ごぼりと泥土の底から浮かび上がる泡沫あぶくの音までが聞こえてきそうな、直視に耐えがたい腐臭漂う黒沼。そして今、その中央から何かがむくりと身を起こす動きが、かろうじて視認できた。


 周囲に広がる黒靄よりも黒い、靄そのものでできているかのようなその黒い体からは長い髪に細い肩と女性らしい輪郭が見てとれるが、しかしそう見えたのはその部分だけで、しかもかろうじてだ。それ以外のほとんどの部位において、人ではない、おぞましいまでに醜い形をした肉の塊が、われ先にと競り合うように盛り上がっていっている。それが、泡のようなぼこぼこという音を立てているのだった。


 やがて、見境なく膨張していく肉の塊の1つ1つに、人の顔に似たものが浮かび上がった。口のような黒い穴から怨嗟の呪詛を吐き出し始める。


「……ここの怨霊どもを取り込んで、化生けしょうしたか」


 隼人のつぶやきには、苦々しさがにじんでいた。

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