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第16回

「……あれは、階下の……」


 薄暗い玄関、廊下からの明かりに浮かび上がった人影を見て、真がつぶやく。

 オートロックは? との思考が霞のかかった頭にぼんやりと浮かんだのもつかの間。ワンピース姿の人影は、ねじ切ったドアノブらしき鉄製の塊を足下に落とした次の瞬間、恐るべき瞬発力で廊下を一直線に走り込んできた。


「!!」


 人間業とは思えないその速度、髪を振り乱してとても正気には見えない形相に全員が目をみはる。リビングの入り口にいて、一番近い位置にいたのは未来と真だった。混乱しつつも完全に避けるには距離がなさ過ぎると判断した未来は、真をかばって無理やり謎の人物との間に自身を割り入れる。背に一撃受けることを覚悟したが、しかし意外にも肩と肩がぶつかって跳ね飛ばされただけですんだ。謎の人物は未来や真など眼中にない様子だった。

 謎の人物の目的は隼人でも、アレスタでもない。


「! 彼女、飛び降りる気よ!」


 彼女が見つめている先がブラインドの下りたフランス窓だと気付いたアレスタが叫ぶ。しかしそれよりも一瞬早く隼人が行動に移っていた。

 窓を開けて出ようとした謎の人物の後ろ襟をつかみ止め、そのまま壁へたたきつける。

「ちょっとあんた!?」

「加減はした! それより――」

 綾乃のほうを振り返った隼人は、彼女の後ろで床に打ちひしがれていたはずの麻衣子の姿がないのを見止めた。突然の謎の人物の闖入ちんにゅうで全員の意識が麻衣子から逸れた、その隙を突かれたのだろう。


 追跡者が要る。

反射的、隼人はズボンの尻ポケットに手をやってから、普段そこに入れている白狐の屋代――試験管――がない理由を思いだし、チッと舌打つ。

 だがそのことについて何か言う暇もなく、未来の「あれを見て!」との鋭い声が彼の意識を再びリビングの入り口へと戻した。


 未来が指し示す先、玄関に、続々と人影が集まりだしていた。その全員が女性である。未来たちはあずかり知らぬことだが、全員坂口真の顔見知りであり、彼に少なからず好意を抱いていた、このタワーマンションの住人たちだった。

 しかもそれだけでは終わらない。今、このタワーマンションを目指して車を駆る女性たちがいて、早い者はもうすでに到着し、ロビーを通り、エレベーターに乗って、48階にあるこの部屋へとわれ先に詰めかけていた。彼女たちがここに至るまでのロックは全て解除され、警備員は保安室に閉じ込められ、防犯カメラやブザーは残らず故障していた。彼女たちの行動を阻むものは、そのことごとくが見えない力という偶然によって排除されていたのだった。


「……隼人くんがしたみたいに、気絶させるしかなさそうね」


 大きく開いたままの玄関からエレベーターが到着する音がかすかに聞こえて、こちらへ向かってくる大勢の女性たちの気配を感じとったアレスタが未来と綾乃に告げる。

 この部屋を目指す彼女たちの目的が何であるか、言葉にせずとも3人とも理解できていた。


「坂口さんは、この女性と一緒に壁際で身を潜めていてください。もし途中で女性が目を覚まして動きだしても、止めないで。それは彼女たちがします」

 何が起きているのか理解できていないだろうに、アレスタの言葉に真はうなずき、黙って従うことを選んでくれた。


 人生の半分以上、高校生のときからずっと38年間も怨霊にとり憑かれて思考を操られてきていたのだ。そこから解放された彼の頭と心は、今これ以上ないほどぐちゃぐちゃに乱れきっているだろう。人生を狂わされた、人生をだいなしにされたとショックを受けているのは間違いなく、それは間もなく激しい怒りと取り返しのつかないことへの絶望に変わる。自殺を考えても不思議ではない。

 そんな状態なのに、わめいたりせず理性的に動いてもらえるのはありがたかった。

 彼には心のケアが必要だ。できるだけ早くカウンセラーを手配する必要がある。

 だが今集中すべきは飛び降り自殺の阻止だ。


 今は未来が玄関に結界を張って侵入を食い止めているが、これはあくまで緊急避難的な一時のもの。この行為が彼ら自身の生命エネルギーを消費して行われていることを思えば、できるだけ早く解除する必要があった。


(あの少女の霊は38年間こちらの世界にいて、相応の怨霊と化していたようだけれど、ここまでの力を使えるほどではなかった。これが異界駅の力のせいなら、本当に厄介な怪異だわ)

 ナイトフォール内にいて人を呼び寄せ、帰りたいとの願いをかなえて戻す程度の怪異と、すっかりあなどっていた。これは早急に対策をとるように進言しなくてはならないだろう。少なくとも、危険度ハザードレベルを上げる必要がある。


 幸い、彼らが目的としている場所はこの部屋のベランダだ。他の部屋や廊下の窓も含まれていたならとても対応しきれず応援を呼ばなければならないだろうが、この部屋限定ならばまだ自分たちでもどうにかできる。

「この廊下を利用して少しずつ対処しましょう」

 と話がまとまりかけたときだ。

「俺が出る」

 隼人が彼らに向かって踏み出した。

「はあ!? あんた、何勝手なこと言ってんのよ!」

「おまえはついてくんな。そこで作戦どおりやってろ」

 隼人は言葉が足りない。友達らしい友達がこれまでいなかった、その弊害だ。

 彼の言外の意図を汲んだアレスタが「まあまあ」ととりなしかけたそのとき。


 が空間を震わせた。


 水面に広がる波紋のような微細な振動を感じ取って、隼人も動きを止める。波紋の出所を探して視線を走らせた先で、空間に渦が生まれているのを見つけた。

 白狐が異界駅内部からナイトフォールを開いたのだ。

 アレスタの目がきらりと光った。

「隼人くん! 行きなさい! こちらはわたしたちで十分対処できます!」

「……でも、アレスタさん……」

 アレスタの後ろで未来が少し心もとなげに玄関を見た。そこでは彼女の張った結界が、膨大な霊的エネルギーに反応して火花を発している。一体どれだけの数が集まっているのか……じきに結界は解かずとも破れるに違いない。そのとき押し寄せる彼らを、隼人抜きで押しとどめることができるだろうか――。

 さまよった視線が、綾乃を見て止まった。綾乃はやる気で、その面には彼女のような迷いも不安もない。

「そうよ。ばれたら行くって言ってたでしょ。もともとあんたなんか、頭数に入れてないわ」

 しっし、と手で追い払うまねまでする。

(……そう、だよね。これは最初から、わたしたちの務めなんだ……)

 TUKUYOMIの執行人ブレイカーとしての役目。姫巫女から託された神告を、惨劇の現実化を、絶対阻止すること。

 綾乃はちゃんと分かっている。

(これが、わたしと綾乃ちゃんの差、なのかな……)

 胸の鈍い痛みを隠して、未来も顔を上げて言った。

「安倍くん、行って。こっちは大丈夫だから」

「…………」

 隼人は無言で3人を順に見た後、渦をくぐって消えた。




「あ、言っておくけど、わたしは一切手を貸さないからそのつもりで」

 アレスタはにっこり笑って、2人の邪魔にならないよう、壁まで退いて背を預けた。

 それが見届け人、裁定者メディエーターの役目だ。討伐に入ればどのようなことが起きようとも傍観者に徹する。

「あー、ずっるいなー」

 口先をとがらせてそう言った直後、にやりと笑う綾乃と笑顔のアレスタが視線で語り合う。

「さて。口の悪いむかつくヤツもいなくなったことだし。役目に集中しますかね!」

 パシッと右の拳を左の手のひらに打ちつけて前に出る。

「未来、結界を解いて。始めるよ」

「うん」

 未来は胸元の何かに制服の上から触れるような仕草をした後、柏手を打ち、解除の文言を唱え始めた。



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