その霊は、とても美しかった。
ふんわりと宙に広がった長い黒髪に囲まれた小さめの顔。雪のように白い肌に花びらのような赤い唇。非の打ち所なく整った
これが麻衣子のなりたかった、理想の姿なのだろう。
とはいえ、全身から噴き出す黒靄の禍々しさばかりは、隠しようがなかったが。
アレスタを一刀両断してやったと浮かんでいた会心の笑みが、ひらりと床に落ちた人型の紙を見た瞬間凍りつく。
「坂口真氏に憑いた霊、喜多本麻衣子の存在を確認。坂口氏に近づく者を対象に攻撃する、害意持つ怨霊と認定。これにより、TUKUYOMI機関所属の
先まで真に対して見せていたものとはまるで違う、毅然とした姿、声だった。
「
「「了!」」
自分を浄霊するという言葉、そして2人が取り出した符を見て、麻衣子の表情が激怒に変わった。黒靄の触手が全身から噴き出して、触手に触れた部屋中の物が浮かびあがる。麻衣子を中心に衛星のように飛び回って、回転することでどんどん遠心力をつけていくそれらは、かすめただけでひどいけがを負うことになるのは想像に難くない。だが綾乃と未来にそれを怖じている様子はなかった。
未来が何事かをつぶやくと、ふわりと手から符が離れる。符は部屋で吹き荒れる風の渦に巻き込まれることなく宙を飛び、左右の壁に貼りついた。
「消音の符か」
「それと、保全の護符ね。室内だから」
アレスタが言ったそばから置時計がすごい勢いで壁に激突した。衝撃で置時計はばらばらになり、壁には穴があく。
「保全?」
「多少は仕方ないわ。完全に防ぐのは無理。あとでリフォーム会社に頑張ってもらいましょう。
それであなたは? ここで見ているだけなのかしら?」
隼人は空になった牛乳パックを隅のゴミ箱に放った。
「俺は
それに、俺は研修生なんだろ」
「残念だわ。どんな浄霊をするのか、見せてほしかったのだけど」
「そりゃおあいにくさま」
肩をすくめた隼人の視線が、何かに気付いたようにアレスタの一点で止まる。
アレスタは隼人の視線を追って、自身の右腕から血が出ていることに気付いた。
「ああ」
「身代わりの護符では、完全に防げなかったようだな」
「仕方ないわ。想念というのは強いものだし。あれは相当強い怨霊だもの。
隠れていた喜多本麻衣子を表に出すには、坂口氏への執着を刺激する必要があった。むしろこれだけですんだなら上出来でしょう」
ハンカチを傷にあてるアレスタから目をそらし、隼人は前を向く。そこでは綾乃が
ピシピシと亀裂が入るような音がしている。それはただのラップ音ではない。隼人の金に変わった目には、綾乃の近くの空間で実際に幾つもの断裂が起きているのが視えていた。
綾乃にも視えているだろう。それでも表情一つ変えず、麻衣子から視線をそらさない豪胆さはそれなりの場数を踏んできているからか。
「憂喜くんが来てくれてたら、もう少し楽だったでしょうね」
とのつぶやきが聞こえて、隼人は再びアレスタへ意識を戻した。
「彼は憑依体質のようだから」
だからここへ来る前憂喜を誘っていたのかと、隼人は当時を振り返った。
別れ際、アレスタは憂喜に自分たちと一緒に行かないかと誘っていた。
『異界駅へ入るだけなら、2人で十分でしょう?』
「てっきりあれも、俺を懐柔するための策だと思っていたが」
(だからずっと不機嫌だったのね)
アレスタはふっと笑い、「それもあったわね」と肯定した。
「認めるのか」
「無意味なうそはつかないわ。あなたが警戒するのは当然だし、それを解消するためには信用を築くことが必要だもの。
でも、彼に霊媒師としての素質があるというのも本当よ。ここに来てくれていたら、わたしが挑発せずとも喜多本麻衣子の霊を楽に引き出せていたでしょう。もちろん導きは必要だったでしょうけど。今の彼は、無意識状態でないと霊の言葉が聞けないようだから。
訓練次第では
「いらない。俺は1人でやってきた。これからも、俺は1人でいい」
その言葉に、アレスタはひっかかりを覚えた。もしかするとこれも彼の過去に起因することなのかもしれない。
あとで調べておこうと心の中でメモをとりつつも、今となっては大して重要ではないことだと思わないでもなかった。自分たちと彼は、これからなのだから。
信用は過去を意味し、信頼は未来を意味する。
彼から信頼を得ることこそが一番重要だ。
「……そうね。憂喜くんを向こうに行かせてよかったのかもしれない」
ん? と片眉を上げる隼人に、アレスタはあることを話した。
見守る2人の前、やがて綾乃の符術がじわじわと麻衣子を追い詰め始めていた。飛んでいた絵画が麻衣子の視界をふさいだ一瞬を見逃さず、白い雷撃が絵画ごと黒靄を貫き麻衣子の左腕を散らす。
「未来! 彼を引き離して!」
綾乃の指示とほぼ同時に、明らかに恣意的な動きで風が吹いた。廊下を一瞬で清浄化した、あの浄化の風が消えた麻衣子の左腕部から潜り込むようにして半分麻衣子の中に埋もれていた真を分離する。攻撃の綾乃に意識を奪われて、未来の存在を失念していた麻衣子は、とっさに反応できない。真は麻衣子が
「大丈夫ですか、坂口さん。私がわかりますか?」
「あ? ああ……」
「さあ、こちらへ」
足元のおぼつかない彼を誘導して、アレスタたちのもとまで下がる。
――やめて! かえして! 真くんは私のものよ!!
癇癪を起こした子どものように肩を怒らせ、飛びかかっていこうとする麻衣子の突き出された手が、次の瞬間バチバチと白い火花を発して跳ね返された。
符を持った綾乃が印を結んでいる。
「違うね。あんたには何もない。死者のあんたが持てるものなんか、この世界に何一つないんだ」
――わたしは死んでなんかない! ちゃんと帰ってきたんだから!
真くんとわたしはお互いのものなの! 求め合ってるの!
ねえ真くん! わたしたち、ずっと一緒よね!?
「……まい、こ……? 僕、は……」
真は何かを口にしようとしていたけれどもその表情はぼんやりと夢うつつで、うまく言葉を組み立てられないようだった。
麻衣子から物理的に切り離されはしたが長年彼女の支配下にあり、まだ抜け出せてないのは間違いない。
――真くん!
彼の元へ行こうとした麻衣子だったが、再び綾乃の妨害にあい、後ろへ弾き飛ばされてしまった。
「来たりましませ、東に
壁に追い詰められた麻衣子に向けて綾乃の指が神印を切り、打ち返しの呪法が始まる。
「西に
――いや。
綾乃の招請に呼応するように四方に降臨する天意を感じ取った麻衣子は、恐怖からじりじりと後退する。しかしすぐにその背は彼女を囲む四方神天意の神光に触れることとなった。
直後、酸を浴びせかけられたような激痛に麻衣子はぎゃっと声を上げ、床に身を投げ出してもだえる。
――いやよ、いや……。助けてスライ……。
息絶え絶えに麻衣子はこれまで力になってくれた少年を呼び、助力を求めたが、何度その名を呼んでも返る言葉はなかった。
打ちひしがれている床の麻衣子に向け、綾乃が最後の神印を切る。
「中央に禁厭祖神、伊邪那岐神。
黄泉の軍勢を打ち払いし降魔の剣にて、その怨霊を消し去りたまえ!」
四方に屹立した神天意の中央に、伊邪那岐神の神意、光柱が出現する。
その神々しさは、人であれば目を奪われずにいられなかったろう。だが今の麻衣子には耐えがたい、己が身を骨まで焼き焦がす業火としか感じられない。
――やめてーーーーっ!! 助けて、真くん!!
身を縮めた麻衣子の耳に、そのとき、ようやくあの少年の声が届いた。
『おねえちゃん、捧げて』
――え?
『そうすればその力を使って、助けてあげられるよ。
もう選んであるんでしょ?』
――でも……これは、真くんの病気を治すための……。
『そうだね。でも、ここでおねえちゃんがやられちゃったらどのみちおにいちゃんは助けられないよ?
迷ってる時間はないよ。その神意に触れられたらおねえちゃんは消滅する。さあ、早く捧げて』
神意が何か、麻衣子は知らなかった。けれども本能が、少年の言葉は真実であると悲鳴を上げていた。
この炎のような光に自分は堪えられない。消滅するしかない。
消滅? ……いや! 死にたくない!
――捧げるわ! 捧げる! 何でもあげる! だから助けて!!
よくできました、との嘲笑が聞こえた気がしたのは、気のせいか?
「無駄! 光陣は完成して――」
ぱんっと内側から破裂したような振動を感じたと思った瞬間、綾乃の手の神印が強制的に解かれ、四方神天意光陣が消えた。四方位の神意が消失し、伊邪那岐神の光柱が消えていく。
「そんな……っ」
あり得ない、と驚愕して言葉を失う綾乃の後方でガチャリと音がして、入り口のドアが開いた。