見上げてきた未来が少しおびえている様子なのに気付いたふうでなく、真はにっこり笑う。
「すてきでしょう。大変だったんですよ、これだけ集めるのは。彼女、とてもおとなしくて引っ込み思案だから、写真も撮られたがらなかったそうで。お母さんにお願いして、焼き増しさせていただいたんです」
照れ笑う真を見て、「キモ」と隼人が小ばかにした笑いをしても、綾乃はとがめる気になれなかった。
この部屋は確かに気持ち悪い。常軌を逸している。
しかも祭壇に祀っている相手は、元恋人ですらない少女なのだ。
(それとも、違うのかな?)
綾乃の疑問を未来が知らぬふりをして口にした。
「この方が、亡くなられた恋人さん、ですか?」
「いえ」
真はあっさり否定した。そうだったら良かったのに、と残念そうな口ぶりだった。
「1度話したことがあるだけです。彼女が川に膝まで浸かって、何か探している様子なのを見かけて。10月の終わりくらいだったと思います。もう水も冷たいのに、何をしているのか不思議で見ていると目が合って。猫の飾りのついたキーホルダーを探しているとのことでした。岸の草むらのところに落ちているのが見えたので「これじゃないか」って拾ってあげたんです。父親の形見だと知ったのは後日、彼女のお母さんから聞きました」
そのときは何とも思わなかった。すごく感謝されたことはうれしかったし、いいことをしたという満足感があった。でもそれだけで、名前を聞こうとも思わなかった。第一、彼はそのとき気になる女の子がクラスにいて、年が明けたら彼女に告白しようと決心していた。きっと彼女も同じ気持ちに違いないと、手応えは感じていた。
本当はすぐに告白して一緒にクリスマスを過ごしたかったが、今は受験を1番に考えないといけないから無理だと思い直して。だけど同じ大学へ進学することは知っていたから、春からは一緒にいろんな所へ行って遊ぼうと、胸の中で計画を立てていた。
だからこのときは、川の中でキーホルダーを探していた女の子のことなど1時間もたてばすっかり忘れてしまった。きれいさっぱり、顔も覚えていなかった。
「そうして恋人同士になった数日後、彼女が屋上から飛び降りたと知ったときは大変衝撃を受けました。死ぬほどの苦しみを抱えていたのならどうして打ち明けてくれなかったのかと思って悲しくなり、それから、自分はそこまで信頼されていなかったのだと思い至り、腹立たしくなりました。やりきれない思いでいっぱいでした」
「おかわいそうに」
アレスタが身を寄せ、そっと腕に手を添えた。
「そんなにも想えるお相手を、そんな若いころに失ってしまったなんて」
「ああ、いえ」真は苦笑する。「お気遣いをありがとうございます。ですが、もう30年以上前の出来事なんです。とうに乗り越えました。
不思議ですね。そのときはどんなにつらく、悲しくても、やっぱり時間がたてば悲しみは薄れるんです。怒りも、腹立たしさも、長続きしなかった」
38年前、高校生だった自分を振り返って、真はふっと笑む。
クラスの女の子への淡い恋心に一喜一憂していた未熟な17歳の少年は、55歳になった今となってはもはや他人も同然だった。あのころの自分がどんなふうだったかもよく思い出せない。
そうして急速に薄れていく彼女と入れ替わるように真の中で存在感を増していったのが喜多本麻衣子だった。
「麻衣子への想いはあまりに自然すぎて、当たり前のようにそこにあるから、なかなか気付けませんでした。恋人だった彼女への想いはぱっと燃え上がったときと同じように彼女がいなくなるとすぐに引いてなくなりましたが、麻衣子への想いは全く違ったんです。
惜しむらくは、気付くのが遅かったことでしょうか。気付いたときにはもう、彼女はここからいなくなっていました」
淡々と真は語った。
忘れられない彼女、麻衣子について調べたこと。名前と住所を聞き出し、母親に連絡をとり、彼女について聞かせてもらったこと。何度も訪ねるうちに、少しずつ、彼女の持ち物をいただけるようになったこと。
「では、祥子さんから聞きました、忘れられない人というのはその方のことですね。
今もそうして捜されて、彼女の帰りを待っていらっしゃるのですか? このような部屋までお作りになられて」
「いえ、当時からそんなに捜してはいませんでした。高校生でしたし、警察以上の捜索ができるとは思えませんでしたから。僕にできたのは、彼女のお母さんに会いに行って、慰め、話し相手になることぐらいでした。
今でも年に4回は必ずお母さんに会いに行って、麻衣子についての話を聞かせてもらっています。もう高齢なので独り暮らしは大変そうで、2年前倒れて救急車で運ばれたと聞いてからは、訪ねるたびに一緒に暮らしませんかと誘ってきたのですが……どうやら僕のほうが先に入院することになりそうです」
「まあ。そういえば、検査入院されるということでしたわね。祥子さんはそのようなことは一言もおっしゃらなかったのですが、どこか体の具合でもお悪いのでしょうか」
「ああ、すみません。少し大げさに言いすぎましたね。時々頭痛がするくらいです。それでこの間病院へ行ったら、もう少し詳しく検査しましょうということになっただけです。
何日か入院しないといけないらしくて。……今年の夏は、向こうへ会いに行けそうにないな」
最後を、彼は肩越しに振り返って、背後にいる者に話しかけるように言った。
もちろん彼の背後には誰もいなかったが、4人はそれを指摘しなかった。
アレスタはさらに真へと身を寄せた。
「光の加減かと思っていました。だからこんなにも顔色がお悪いのですね。
ご自身がそんなふうになってもお独りになられた彼女のお母さまに気を配られるなんて、あなたは本当に心のお優しい方」
さりげなく、自身の豊かな胸を彼の肘に密着させる。そうして潤む目で彼を見上げて、気遣うようにそっと頬に手で触れようとした、そのときだった。
ぴしりと亀裂の入ったような鋭い音がしたと思うやアレスタの伸ばした腕に、顔に、突然縦に裂傷が走る。
――同情するフリをして、彼に言い寄ろうとするからそうなるのよ、この牝ギツネ。
ふわりと真の肩口付近に現れた女の霊が、アレスタをあざ笑った。