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第13回

 そのタワーマンションは中心地からほどよく離れた場所にあった。

 都市部の喧噪からは距離を置きたい、しかし交通の便に不自由を感じたくないと考えるアッパーマスや富裕層には最適の立地だろう。玄関前には警備員が常駐し、1階にはレストランやカフェ、コンビニ、上層階には24時間のジム、ジャグジー付きサウナ、プールなども完備されている。


「すっごいとこ住んでるんだね」

 マンションを見上げた綾乃が手庇の下で目をすがめる。

「……あそこか」

 一点を見つめてつぶやいた。


 怨霊の棲み処は例外なくよどむ。腐り、果てる。

 澱みは長い年月をかけてじわじわと広がり続け、今回のように何十年と同じ場所にいれば、それは相応の障りと化して人の心身に異常を成す場となる。

 おそらく澱みの中央、坂口真の部屋の向かい側、左右上下階は、人にとって耐えがたい空間、異界ナイトフォール同然となっているだろう。まともな神経の持ち主ならまず住めない。入居したとしても、2週間ともたず心を病むに違いない。


「さあ行くわよ」

 アレスタは動じる様子もなく、胸まであるシャギーカットの金髪を肩向こうへ払い、カツカツとヒールの音を立てながら綾乃の横を抜けてエントランスへ歩いていく。

(……あんまり近づきたくないなあ)

 うへえ、と敬遠を見せる綾乃に未来が同意の表情を示しつつも

「綾乃ちゃん、お仕事だから。ね?」

 と促す。


 駐車場の入り口にあった自販機で買ったイチジク牛乳をストローでズコーっと吸いながら無言でついていく隼人は。

(……これ、ハズレだ。くそマズい)

 そんなことを考えていた。




 アポイントメントは取ってある。

 アレスタの美貌を間近で見て、ぼうっとなっているフロント員から来客者専用の磁気カードを受け取って、まっすぐエレベーターへ向かった。

 エレベーターはカードをかざされることで動き、目的の階でしか停まらない仕様だが、それでも坂口真の居室のある48階まで上るには時間がかかる。

「不便だね。これじゃ、ちょっとコンビニへ行くのもひと苦労だわ」

 綾乃が率直な意見を述べた。


 そうして48階に到着し、エレベータードアが開いた瞬間。そこに広がった光景を見て、綾乃は踏み出そうとした足を止める。

 廊下中に濃い瘴気が充満していた。壁と床、天井の境付近が最もくらく、他にも柱や花器を飾る台、絵画の額などの凹凸部位に、煤けたような瘴気がたまっている。そしてそういった黒い靄のような瘴気だまりの中から、爬虫類はちゅうるいを思わせる小さな両眼が幾つもこちらを見ていた。

 普通の者ならばこういう一切が視えることはなく、ただの廊下にしか見えないのだろうが……。


「……こうなってるとは思ったけど、やっぱ、気持ち悪ぅ」

 ドン引きしている綾乃の横を抜けて、隼人が廊下に出た。

 風船が割れるような小さな音がパンっとして、床でたまった瘴気から起き上がりかけた何かを踏みつけて消す。

「虫が湧いてるな」

「いや、あんたそれ、虫じゃなくて怪生けしょう――」

「虫だ。よごれた場所にすぐ湧いて、隅でカサカサ動いてる。ゴキブリと変わりゃしねえ」

 隼人の手が伸びて、壁に向かって何かぶつぶつつぶやいていた霊の頭をつかんで散らした。

 澱みはこういった霊も引き寄せる。まだそれほど害はないが、放置しておけば澱みを蓄積して力をつけ、いずれ怨霊として目覚めかねないものたちだ。


 そのとき、ぱんっと柏手の音がした。まだエレベーターの中にいた未来が何かつぶやくと爽やかな風が吹いて、黒い靄が引いていくとともにその中にいた怪生たちも退散していく。


「一時的なものですが……」

「いい子ね。よくやったわ、未来。

 あんな穢れた所を歩くなんて、まっぴら」

 きれいになった床に、颯爽とアレスタが歩を進める。

「それじゃあ坂口真に会うとしましょうか」

 坂口とのネームプレートのドアの前に立ち、インターホンを押した。



 ドアを開けた坂口真を見たときの第一印象は、疲れている、だった。

 疲弊した様子で、肌色も悪い。だがそれでも来客のために髪はとかしつけられ、服装もきちんとしている。

「はじめまして、MSAMoonlit Spirit Agencyのアレスタ・クロウと申します。コンサルタントをしております。本日は有村商事の有村祥子さんのご紹介で訪問させていただきました」

「ええ、聞いています。

 はじめまして、坂口といいます。そちらの方たちが?」

「係の者がお電話でお話ししたと思うのですが、来年入社予定の研修生ですわ。よろしかったでしょうか」

「ああ。3人と思わなかったものですから。かまいませんよ」

 歓迎の笑みを見せ、4人を中へ招いてくれた。




 一歩入った瞬間、空気が変わったのが分かる。

 穢れがないわけではない。むしろ怨霊の気配は強く、廊下にいたときに比べて密度が上がっている。だがここに怪生はいなかった。

 例えるならば、ここは王の間。怪生ごときが近寄れるわけがないのだ。


 廊下は照明があっても薄暗く感じた。目に入る全ての窓でブラインドが下ろされているせいだろう。

「高層なので遮蔽物がないでしょう? 直射日光が入って、日中は開けていられないんですよ。おかげで真夏日だと冷房の効きも悪くて」

 彼らの視線から察した真が説明する。

「まあ。大変ですのね」

 日の光を嫌い、暗がりを好むのは憑かれた者によく見られる特徴だ。

 にこやかに返すアレスタの後ろで、綾乃と未来が互いの見解が一致しているか確認するように視線を合わせる。隼人はあくびをかみ殺して、つまらなさそうだ。


 案内された廊下の先のリビングには、邪魔にならないように隅に、旅行かばんが置かれていた。中に詰めている途中だったというように、数枚の着替えと洗面用具が脇に置いてあった。

「ご旅行ですか」

「あ、いえ。ちょっと2日後に検査入院をすることになっていまして」

「まあ。大変なときにお邪魔することになって申し訳ありません」

「いえ」

 真の相手はアレスタに任せることにして。真の気がそれている隙に、3人はそれぞれ観察を続ける。

 隼人が、突然横のドアを開けた。

「あ。勝手に人の部屋を――」

 綾乃のとがめる声が、室内を目にした瞬間消える。


 そこにあったのは祭壇だった。


 薄暗い部屋の中、麻衣子の大判の額付き写真が窓をふさぐ形で正面に飾られていて、真っ先に目を引いた。たくさんの赤い花が周囲を飾っている。白いシーツのかけられた段にはシャーペンやノート、髪飾り、猫のキーホルダー、女性用の服などが並べられていた。まず間違いなく、麻衣子の私物だ。

 麻衣子の写真はそこだけではなかった。ポスターサイズに引き伸ばされた麻衣子、記念撮影か何か、プライベートな写真から切り抜かれたと思われるさまざまな表情やポーズをとった麻衣子が部屋の壁を所狭しと埋め、天井からは笑顔の麻衣子が彼らを見下ろしていた。


 ヒュッとのどが詰まったのは、はたして室内に充満している、むせるような花の香のせいだけだろうか。


 圧倒され、よろけるように一歩後ろに退いた未来の肩に、何かがぶつかった。

 真だった。

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