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第10回

 麻衣子は草をかき分けて歩いた。


 草は自身の背丈ほどもあり、周囲の景色はほとんど見えない。せいぜいが遠くの山、そして黄色と赤、オレンジが複雑に入り混じった空だけだ。

 前後左右から押し寄せる芳烈な青臭いにおいに胸がむかつき始めたころ、電車の走る音が遠くに聞こえた。駅舎らしき建物が見えたのでそちらへ向かって進んだが、駅の周辺にいる者たちが見えてきた地点で足を止めた。


 どれも皆、人の形をした黒い影たちだった。高身長で、軽く2メートルは越えていた。

 影は駅前にある大鳥居を通って出入りしていて、森へ通じる道は駅から出た影たちで行列になっている。

 炎天下の陽炎のようにゆらゆらと揺れながら緩やかな坂道を登って行く影たちに、この先に何があるのだろうと興味深く見守っていると、突然空気をびりびりと震わせる叫び声が森の奥からして、耳をつんざいた。


 ――ヴモ゛モ゛モ゛モ゛モ゛モ゛ーーーッ


 聞き覚えのある、激怒した牛の鳴き声だった。

 冷や水を浴びせられたように、一気に血の気が引いた。

(逃げなくちゃ!)

 急いで辺りを見渡したが、暗い駅の構内はあの黒い人影たちがたくさんいて、入れそうにない。電車は断念して、走って逃げるしかなかった。


 走って、走って。とにかく少しでも離れようとする。ここに来るまでずっと歩き通しで疲労がたまっていたが、かき分ける草がざわめく音や地を蹴る足音、呼吸音までも聞かれている気がして、もう見つかっている気がして、止まれなかった。


 逃げなくちゃ。

 でも、どこへ?

 どこに行けばいいの?

 こんなとこ知らない。どこも知らない。

 誰も知らない。


(真くん、怖いよ、助けて……)


 もうこれ以上走れないと、喘鳴をのどから絞り出しながらその場にへたり込む。泣きじゃくる麻衣子の涙でにじんだ目に、大鳥居が見えた。

 一瞬、戻ってきたのかとぞっとしたが、よくよく見れば端々の形が違う。別の大鳥居だった。

 周りに人影はなさそうだ。

 びくびくしながら誰もいない道を渡り、人気のない改札を乗り越えてホームに入った。

 元いた駅に戻るには電車に乗るしかない、そう思った。

 駅に戻りたいわけじゃない。だけど少なくともあの駅にはあんな人影はいなかったし、牛の化け物もいない。どこからともなく突然現れ、襲いかかるかもしれない何かにおびえずにすむ。


 ちょうど来ていた電車に、そっと乗り込む。中には誰もいなかったが怖くて座席に座れずにドアの前でしゃがみ込んだ。

 膝を抱いて目を閉じて、電車の揺れを感じていた麻衣子の耳に、小さくざわざわと、大勢の人の出す騒音が聞こえてくる。少しずつ目を開くと、通路に人影たちがいた。

 ただ、前の駅で見た人影よりだいぶ薄い。天井の灯りに照らされているせいかもしれない。

 影は麻衣子に気付いている様子はなく、生きている人のように隣同士で会話をしたり、つり革につかまってぶつぶつ独り言を言ったり、何か手元の小さな長方形の物をのぞき込んだりしていた。


 怖い!


 このまま、どうか気付かれませんように、と祈る気持ちで身を縮めてドアに体を押しつける。そのせいでドアが開いたとき、ホームに投げ出される形で転がり出てしまった。

「きゃっ……!」

 左肩を激しくぶつけてしまう。

 痛みに堪えながら倒れた体を起こそうとした麻衣子を、上からのぞき込む者が現れた。

 顔も手もゴツゴツと骨張ってしわだらけの、腰の曲がった老婆が口を開く。

 もごもごと開いた歯のない口は、ぽっかりと穴のように真っ黒かった。開かれた両目も白目がなく真っ黒で、老婆が何かしゃべっているように口を動かすたびに3つの穴から闇色の煙が吹き出していた。

「いやあ……っ!!」

 迫ってくる煙と手から逃げようと、麻衣子は顔をそむけ、身を起こして走りだす。

 老婆の手が後頭部の髪をつかんだ弱い衝撃がきたが、少し抵抗しただけで運良く髪は老婆の指をすり抜けた。


「あたしにもくれたっていいじゃないかあぁぁぁぁあああぁぁあああぁあ!」


 年老いた体から出ているとは思えない声量だった。

 聞くだけで恐怖に囚われそうな叫声から耳をふさぎ、電車が発車する寸前、車両へとび込む。

 そうして到着した次の駅が見覚えのある最初の駅、よいのみや駅だと分かったときは、ほっとするあまりホームで声を上げて泣きだしてしまった。


「……もうやだ。……やだよぉ……」


 どうしてこんな目にあうの? わたしが何したっていうの?



『やだ、もーマジ勘弁してよ。近寄んないで、くさいじゃない』

『あーくさいくさい。生ゴミのにおいがするよー、このブス』

『だって事実じゃん。言われたくないなら整形すれば?』

『このバケツの水かけてあげる。そうすれば少しはマシになるんじゃない?』

『ムリムリ。整形なんか無駄だって。死んで生まれ変わらないと駄目なレベル』

『はあ? なに本気にしちゃってんのー? ただのジョークなのにさーウケるー』

『ちょっとやだあ、ブサイクがなに泣いてんのよ、キモーーい』

『身の程を知れって、教えてあげてるだけじゃん。ホント、あたしたちってばやさしーよねえ』


 あははははははは。


『なによ、その目。何見てんだよ、こっち見てんじゃねーよ』

『まるであたしたちがイジメてるみたいじゃない』

『こいつムカつくんだけどー』


 ケラケラ、ケラケラ。


『死ねよ、ウザいんだよ、ドブス』

『もう学校来んな』

『死ーーね』

『死ーーね』



 最後は大合唱になった、彼女たちの声は今も耳に残っている。


「わたしが悪いんじゃない……あいつらが悪いんだ……あんなこと言ったり、したり、するから……」

 どっと疲労が襲ってきて膝をつく。椅子の上に、かばんがあった。

 そこに殴り書きされた文字を見ると、不思議とほっとした。前はあんなに心が痛かったのに。

「……そうよ、悪いのはあいつらで、わたしじゃない……」

 だからあんなめにあっても、自業自得なんだ。


 少年が見せてくれた光景を思い出すたびに感じる、どろりとした何かがまとわりつき、体の内側に入って沈殿していくような感覚は、気持ちがよかった。



『いや』

『ひどい』

『やめて』

『どうしてこんなことするの』

『あたしが何したって言うのよ』

『みんなやってたことじゃない』

『あたしだけが悪いんじゃないのに』


 そんな泣き言を口にして、屋上のフェンスを登っていた。

 こんなことしたくない、とおびえた目が訴えていた。だけど逆らえない。この衝動に逆らうのは、死ぬよりこわい。


ゆるして』

『ごめんなさい』

『お願いだから』


 謝罪の言葉を聞いても、何とも思わなかった。

 だって彼女たちは、保身のためにそれを口にしていただけだから。


『助けて』


 最後はそう言って、全員フェンスを蹴った。



「たった1回の死がなによ。あなたたちは、何度も、何度も、わたしの心を殺したじゃない」

 わらいながら。

 だからわたしも、嗤ってやった。

 ザマーミロ。





「そうだよ、おねえちゃん。おねえちゃんがしたのは正しいことなんだ」


 いつの間にか、あの少年が前に立っていた。

 麻衣子が見上げるのを待って、にこりと笑う。

「因果応報って言葉、知ってるよね。それだけの応報には、相応の因果があったってこと。あのおねえちゃんたちは、自分のしたことが返ってきただけ。だから、おねえちゃんは少しも悪くない」

「………………じゃあ、わたしは、願いごと使ってないって、こと?」

 彼女たちの死が、因果応報ということなら。

 麻衣子の言葉を聞いて、少年は「おっと」という表情をした。

「ううん、そうじゃないよ。彼女たちの生命力を使って、おねえちゃんの願いごとは成就したわけだから」

「真くんに会いたい」

 するりと言葉が口から出た。

「真くんに会いたいの。会いたい。会わせて」

 少年の言葉が耳に入っている様子はなく、麻衣子はかばんを抱きしめたまま、体を前後に揺らして何度も繰り返しその言葉をつぶやいている。

 そんな麻衣子の姿に少年はため息をつき。ふと、何か聞こえたように首をかしげて宙を見上げた。

「え? あ、いいの? ふーん。まあ、きみがいいならいいけど。

 おねえちゃん、この駅にずいぶん気に入られたみたいだね。駅がね、おねえちゃんの願いを叶えてあげるって」

「会わせてくれるの!?」

「会う、っていうのとはちょっと違うけど」

 そう言って差し伸べられた手を取る。少年が麻衣子を連れていった先は、鍵のかかっていない駅員室だった。



「はい、おねえちゃん」

 と、無人の駅員室の壁掛け鏡の前に立たされて、麻衣子はとまどう。

(顔を整えろってこと?)

 鏡に映った自分の顔に、そう言われてもおかしくない顔だと思った。疲れが顔に出ていてソバカスが目立つし、泣いたせいで目の周りが赤く腫れぼったい。

(……ほんと、ブス)

 自分の顔なんて見たくないと目をそらしかけたときだ。

 鏡が突風を受けた水面のように波打った。驚く麻衣子の前で徐々に波紋が消えていき、完全に鎮まったとき。鏡面には坂口真の姿が映っていた。


「真くん!」


 真くん! 真くんだ! 真くんがそこにいる!

 ずっと会いたかった人の姿を目にして思わず伸ばした手は、しかし鏡面に触れただけだった。

「無理だよ、おねえちゃん。おねえちゃんは願いごとを使ってしまってるから。おねえちゃんの声は向こうに聞こえないし、向こうの声も聞こえない。この駅が、駅だけの力でできるのは、これがせいぜいなんだよ」


「真くん、真くん、真くん……。真くん、わたし、ここにいるよ。ここにいるの。ここ、ここに。なのに、ねえ、真くん。その女はだれ?」


 鏡の向こうでは真が女の子に校舎裏に連れてこられて、その先で待っていた女の子に会わせられていた。女の子も真もうつむいて、照れてあせっている様子で、一言二言話す。すると真を連れてきた女の子が焦れた様子で何か2人に喝を入れ、それで女の子がシャキッと背筋を伸ばすや真に何か言い、真はますます照れて顔を真っ赤にして、何か答えた。それが、女の子たちの望んでいたものだったのは間違いない。女の子はうれしそうな笑顔になり、つられるように真も笑顔になる。そして女の子はもう1人の女の子に背中を押され、真に抱きとめられた。


 麻衣子は顔を鏡面ぎりぎりまで寄せて、食い入るようにその光景を見ていた。

「こんなの、おかしい。だって、真くんは、わたしのなのに。……あの女。わたしの真くんに、手を出すなんて。

 どうしてそんなことができるの? だって、そのためにわたしはここに残ることになったんでしょ? おかしいじゃない。あんな怖い思いまでしたのに。

 願いごとは――」

「ちゃんと叶ってるからその点は安心していいよ。

 でもほら、おねえちゃんの願いは、彼に女の人が近づかないことじゃなかったでしょ? おにいちゃん、僕から見てもかっこいいもん。それはどうしようもないよ」

 少年が話す間も、鏡の中の光景は続く。

 真と女の子は、もう1人の女の子に冷やかされながらも、手をつないで歩いていた。照れくさそうに、でもうれしそうに、互いの目に互いを映しながら。


 こんな彼の姿は見たくない。見たくないけれど、見ないでいることも恐ろしくてできない。


「だめよ! 真くんはわたしのものなの! 真くんに触れないで! そんな目で見ないで!」

 キキキキキキーーーッと、爪が鏡面を引っかく耳障りな音が駅員室に響く。

「真くん……真くん……まことくん……まこ゛と゛く゛ん……」

 歯が食い込むほどに噛みしめられた下唇。まばたきをしない目の際が切れて、血が、涙のように流れる。


 ――わたしがあの場にいたなら、あんなこと、絶対させやしなかったのに。


 真くんは、わたしのものなんだから。真くんもそれを知ってるのよ。なのに、あの女。わたしがいないと思って、真くんを誘惑したりして。

 そうよ、彼はとても優しいから、あんなふうに言い寄られると、相手に恥をかかせることになるから突き放すことができないの。悪いのはあの女。性悪な牝狐。真くんの優しさにつけ込んで、あんなふうに彼を困らせたりして。なんてやつなの。

 わたしは知ってる。あの手の女はずる賢いの。優しい真くんじゃ、きっと太刀打ちできないわ。


 ――わたしが助けてあげなくちゃ。


「まこ゛と゛く゛ん……まこ゛と゛く゛ん……まこ゛と゛く゛ん……」


 黒い靄を引き寄せ、内に取り込み。内側から噴き出すほど全身を黒く染めて輪郭がにじみ始めた麻衣子の心の動きを見透かしたように、背後で少年が薄く笑みを浮かべる。


「おねえちゃん。おねえちゃんは願いごとを使ってしまってるから、もう帰れない。それがルールだからね。それは僕にもどうしようもないんだ。

 でも、抜け道はあるよ、どんなルールだってね。もちろんそれなりの代償と覚悟は必要だけど」


 決断するのは麻衣子だと言うように、少年はそこで言葉を切った。

 かすかに、麻衣子の中で「もう願いごとはするな」との声が残響のように響く。

 でも、30人を捧げたあとで、どう違うのか。1人でも捧げてしまえば、100人も同じ。

 麻衣子の心は決まっていた。


「あの2人を捧げるか゛ら、まこ゛と゛く゛んに、あわせ゛て゛――スライ」


 脳裏にひらめいて口にしたその名を、少年は否定しなかった。


「いいよ」

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