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第9回

●ナイトフォール(現実世界 1986/01/17 AM10:00)


 女子高生――喜多本きたもと 麻衣子まいこは長い時間、駅のホームに並べられた古い木製の椅子に座っていた。


 そうしている間にも、本数は少ないもののホームには何度か電車が入構したが、降りる者はいなかった。

 乗っている者たちは皆うつらうつらと舟を漕いでいて、駅に着いたことにも気付いていない様子だった。そして短い時間ホームに滞在した後、電車は再び駅を出ていく。


 不思議と、乗りたいという気持ちにはならなかった。

 次の駅は知らない名前の駅だったが、少なくとも乗ればこの駅から離れられる。そう思うのに、いざ電車が来ると「次でもいいか」と思って乗る気が失せる。


 それを繰り返しているうちに、はたりと気付いた。

 こんなことをしていては、いつまでたっても家に帰れないではないか。

「かえらなきゃ……」

 ぼんやりつぶやいた、ちょうどそのとき。発車を告げるブザーが鳴って、麻衣子ははっと正気付いた。


 ――帰らなきゃ!


 閉まる寸前のドアをくぐり、車両に飛び乗る。電車はゆっくりと動きだし、何事もなく駅を出ていった。

 出られないのではなかったか。

 少年はそんなようなことを言った気がしたが、と麻衣子はそのときのことを思いだそうとする。

 彼女が口にした願いを聞いて、少年は腹を抱えて笑った。そして言ったのだ。


『おねえちゃん、面白いね! ここに来た人は100人中100人が「家に帰りたい」だったのに。あ、おねえちゃんが違うこと言ったから、99人か!』


 だからてっきり帰れないと思ったのだ。願いを他のことに使ってしまったから、もう駅から出ることはできなくなってしまったのだと。

絶望して、何時間もあそこで座り続けていた。


 しかしこうして電車に乗れた。車両はガタタンガタタンと規則的に揺れ、窓の向こうのたそがれ色に染まった景色は右から左へ流れている。何事もなく。

(次の駅がどこか知らないけど、駅員さんがいたら声をかけて事情を話そう。きっと、助けてもらえる)

 ようやく人心地ついた思いでドア近くの席に座ろうとしたときだった。


「きみ!」

「きゃっ」


 突然肩をつかまれて、強引に後ろを向かされた。

「なぜここにいるんだ? もしかして――」

 半袖の白シャツに赤茶のネクタイをした青年は、そこまでまくし立てると急に言葉を切り、ドアのほうへ目を向けた。ちょうど電車が駅のホームに滑り込み、減速したところだった。

「あ、あの……」

 おびえて身を固くする麻衣子の肩を引っ張り、開いたドアからぐいっと押し出す。

 たたらを踏んだ麻衣子を青年はにらみつけ、再び乗車するのを邪魔するように仁王立ちしてふさぐと告げた。

「まだ間にあうはずだ。いいか、もう願いごとはするな」

「……え?」

 驚く麻衣子の前でドアが閉まる。青年にばかり気を取られて気付かなかったが、青年の後ろには黒い影のような者たちが何人もいて、不気味にゆらゆらと揺れていた。青年は、自分の体で彼らが麻衣子を追って出るのを阻止していたようにも見えた。

 混乱した麻衣子の前で電車は発車し、はたして青年の意図はそうだったのか、確かめようもなかったが。

(……真くんに、少し似てた……?)


「電車、行っちゃった……」


 しかし考えてみれば、もともとここで降車するつもりだったのだ。

 まずは駅員を探そうと振り返って構内を見渡すと、そこは何もかもが光り輝く白で統一されたホームだった。

 白いタイル、白い屋根、白い案内板、白い文字。

 古びた木造の駅だったよいのみや駅とはまた違う、異様な白に圧倒されて、麻衣子は無言で立ち尽くす。


 ここでは、自分のほうが不自然で、異端だ。

 異端。

 それは、すみやかに排除しなくてはならないもの。


 目に見えない害意が周りから押し寄せてきているような感覚に襲われて、頭を抱えてその場にしゃがみ込みかけた麻衣子の腕を、横から伸びた小さな腕が引っ張った。


「おねえちゃん、こっちだよ! 走って!」


 白い大きな布のようなものを上からかぶった子どもだった。背丈からすると小学生くらいだ。女の子のようだと思ったが、このくらいの子どもは男の子でも声の高い子はいるので、判断がつかない。

 そしてぐいぐい引っ張る手の力が強くて、わけが分からないまま麻衣子は従うしかなかった。

 白シーツの子は無人のホームを走り抜け、改札をくぐり抜けて外へ麻衣子を導こうとしているみたいだ。

 白シーツの子が改札をくぐるとき、手が外れた。


「待って! どういうことなの? 教えて!」

 息を切らして尋ねる麻衣子に、白シーツの子は麻衣子の後ろが気になるように少しあごを上げて斜め上を見ながら答えた。

「おねえちゃんは、あの電車を降りて正解だったんだよ。あのままあの電車に乗ってたら危なかった。

 でも、ここも危険なんだ」

「それって電車が? 駅が?」

「両方。

 いいから早く出て、おねえちゃんっ」

 白シーツの子は焦れた様子でそわそわと落ち着きなく身を揺らしていた。まるで、背後から今にも何かが追いついてこようとしているみたいに。


 何をそんなに気にしているのか知りたくて麻衣子も肩越しに背後を見たが、白いホームへと続く白い階段と白いスロープがあるだけで、何も見えなかった。

 ただ――何もかも白というのは、やっぱり薄気味悪い。


「……わかったわ」

 白シーツの子のようにくぐり抜けるには小さ過ぎるので、上を乗り越えて駅の外に出る。地面に足をつけた瞬間。


 ――ヴモ゛モ゛モ゛モ゛モ゛モ゛ーーーッ


 と、野太い牛の鳴き声がホームのほうから聞こえてきて、びくっと首を縮めてしまった。

 それは怒り狂った牛の鳴き声のようでもあり、牛の鳴き声をまねた別の生き物の声のようでもあり……。

 いずれにしても体中の毛が逆立つような、ぞっとした声であるのは変わりない。

 あんな生き物が中にいたのかと恐怖する麻衣子のそばで、白シーツの子がほっと胸を撫で下ろしていた。


「さあおねえちゃん、こっちだよ」


 決死の緊張感が解けた声で、白シーツの子があらためて麻衣子の手を握り、引っ張った。

「う、うん……」

 駅の構内で走り回って狂ったように鳴いている何かにまだ少しおびえながら、麻衣子は白シーツの子に引かれて歩きだす。

 白シーツの子も正体不明だったが、その幼い容姿や、あの鳴き声の主から逃がしてくれたのだと思うと、この子を信じてみようという気になっていた。


「駅から出たからもういーや」

 両側が背高い草むらの、砂埃で白っぽい非舗装路を歩いていく途中、思いだしたように白シーツの子が布を脱ぐ。現れたのは、おかっぱ髪の少女だった。

 小さな川にかかった橋のたもとまで来て、少女が振り向く。


「さて。おねえちゃんは、ここから先は1人で行ってね。あたしは渡れないから」

「えっ、でも」

「あたしにはおねえちゃんを帰せない。おねえちゃんは願いごとを使い切ってしまってるようだから。

 でも、あの人ならおねえちゃんを帰せるかもしれない」

「あの人?」

「名前は知らないんだ。髪の長い女の人。人形みたいな、きれいなお着物着てる。あたしより年上で、おねえちゃんよりは下かな。ときどき歩いてるのを見かけるくらいなんだけど、あの人は、すごい力を持ってるみたいだったから。捜して、おねえちゃん」

「でも、それだけじゃ――」

「早く行って! 同じ場所にいつまでもいると、陰鬼いんきが来ちゃう!」

 少女は麻衣子の背中を両手でぐいぐい押して、強引に橋の上に行かせた。

「早く!

 あっ、でも、スライには気をつけて! ずる賢いやつなんだ!」

 少女が口に手をあてて叫ぶ間にも川上から霧が流れてきて。あっという間に橋の上を覆った。両岸が霧に包まれて見えなくなる。

 麻衣子は仕方なく、小さな橋を渡りきった。

「これ、もらうねーっ」

 と霧の向こうからした声で、初めてヘアピンがなくなっていることに気付いく。

 結構お気に入りだったのに……。

「スライって誰よ」

 つぶやいても、もう少女からの返答はなかった。

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