ここに何があるか、隼人も未来も綾乃も知っていた。
しかし憂喜は知らなかった。
「う――もごっ!」
叫ぶ寸前、憂喜の口を隼人がふさぐ。
次に隼人は田中へと視線を向けたが、田中には何も視えていないようだった。
それが普通なのだ。
ここは肉体を持つ生者が力を持つ物理世界。そこで霊体であるものが生者に及ぼせる力はほとんどない。だからこそ霊は自分が本来持つ力を振るうことができる異界ナイトフォールへ人を引き込もうとする。
物理世界に在って、そんな微弱な霊の波長に合わせる(チューニング)ことができる者は少なく、生者でありながら霊に影響を与えられる者はもっと少ない。
憂喜が自分の口をふさいだ隼人の手をたたいた。
「落ち着いたか?」
そっと手を外す。
「……ああ。いきなり現れて驚いたけど、影がないってことは、彼女たち、霊、なのか?」
問いながら、自分でも違うと思っている口ぶりだった。どこがどうとはっきり言い切れないが、目の前の女子高生たちからなんとなくの違和感を感じているようだ。
「違う。あいつら自身が影だ。霊はいない。消費されてしまっている」
「え? それってどういう――」
意味かと訊こうとした憂喜の言葉は、隼人を見て止まった。
風に震える前髪の隙間からうかがえる隼人の目が、またもや金色になっていたこともあるが、その横顔がなんだかつらそうに見えたからだ。
「……目」
「ん?」
「田中に気付かれるぞ」
指摘されて、あわてて隼人は前髪ごと目を押さえる。
しまった、という顔。ああいつもの安倍だと、憂喜は安心した。
隼人たちが塔屋の上でそんなやりとりをしている間に女子高生たちはフェンスを乗り越え、次々と宙に飛び出しては落下していった。
最後の1人が落下して視界から消えたところで、全てを視終えた綾乃が腰にあてていた手を外す。
「まるでついさっきあった出来事みたいだね。もう38年もたってるのに」
「……縁が、切れてないのも、関係あるかも……」
「ああ、そっか。
それで? 西ヨーロッパ本部の連中は、これがまた起きるって?」
「……姫巫女さまに、託宣が、降りた、って……」
未来は、今視た光景の生々しさにあてられて、まだうまく話せないようだ。そんな彼女を盗み見た綾乃は、素知らぬふりで視線を戻す。
「託宣ねえ。神告って、なーんかうさんくさいよねぇ」
「……でも、姫巫女さまの託宣の的中率は、96%以上だって」
「うん。そこは疑ってない。ちゃんと事例が報告書になってるから。ただ、どういう仕組みなのか分かんないのがモヤってるだけ。神秘の一言で納得しちゃうのは、ちょっとね」
彼女たちが所属する東日本支部の
西ヨーロッパ本部から「託宣が降りた」と通達が来たら、世界各国の支部は何を置いても速やかに従わなければならない。託宣よりもたらされる神告は、放置すれば大規模な厄災へとつながりかねない事変と化すことが確実だからだ。
それを未然に防ぐことこそがTUKUYOMIの使命であり、存在理由。
であればこそ、託宣を疑わない、という理屈は分かる。組織のシステムとして、それは正しい。そこを疑えば組織の根幹が乱れてしまう。
「うーーーん……。ま、いーか。暑いし。
さっさとじぃさんの結界の張り替えして、教室戻ろう」
「うん。もう効果が消えてるんじゃないかって心配してたけど、まだ十分使えそうだから、補強するだけにするね。あまりいじりたくないし」
綾乃がいつもの彼女に戻ったことにほっとしつつ、スカートのポケットから取り出した小瓶の中の神酒を使って、未来は結界を強化する作業に移った。
◆◆◆
「今の聞いたか? あれと同じことが起きるって言ってたぞ」
綾乃と未来が屋上を去るのを待ちかねていた様子で、ドアが閉まる早々に憂喜は隼人に向き直って言った。
見るからに憂喜は動揺していた。32人の女子高生が一斉に飛び降り自殺するのを目撃したのだと思えば無理もない。そして
「あれって何だ? 何を視たって?」
視えない田中がそう訊くのも当然だった。そのことに気付いた憂喜は、彼に今自分が目撃したことを説明する。
「あー、ここで昔あったっていう飛び降りの。あれ、ほんとだったのか」
38年たてば、それくらい風化していて当然なのだろう。特に学校というのは世代交代が激しい。親世代の話を実感するのは不可能だ。
ただのうわさ話だと思っていた、と田中は言った。あっけらかんとしたものだ。だがたった今その光景を視た憂喜は、とてもそんなふうに思えなかった。
「安倍、どうする?」
「……どうって?」
「阻止するんだろ? もちろん!」
訊き返されて、憂喜は内心とまどった。即答してくれると思っていたのだ。
しかし隼人の答えは憂喜の想像していたものとは違った。
「何も。あいつらに任せとけばいい。あいつらはそのために来たって言ってたろ」
「そんな!」
「教室に戻る。
おまえ気付いてないみたいだけど、5分前チャイム鳴り終わってるぞ」
パンの空袋を集めて立ち上がる。
「内申書のために遅刻はしたくないんだろ」
そう言い残し、メロン牛乳のパックに刺したストローを口にくわえた隼人は、塔屋から飛び降りるとさっさと行ってしまった。
「おい、憂喜。大丈夫か?」
見るからに落胆した憂喜の肩を、田中の気遣いの手がぽんとたたく。
しかし憂喜は落胆していたわけではなかった。
「……なんなんだよ、あいつ……ッ」
怒りに震えて、こぶしを打ち下ろした。