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第1回

●1986年1月。


 夜の最終電車に1人の女子高生が座っていた。


 同じ車両にいるのは酔っ払った男が2人と、派手な服装をした女が1人。いずれも深酒で泥酔し、船を漕いでいるか、自身の崩れた化粧を立て直すことに余念がなく、なぜこんな夜中の電車に女子高生がと不審に思う様子はない。おそらく、あとから彼女がどんな服装をしていたかと問われても、ブレザー服だったことを思い出せても、上下どちらも濡れて頭から水をかぶったようだということは思いだせないだろう。


 女子高生はこっそり彼らを盗み見て、そのことにほっとする。そして胸元で抱きかかえていた学生かばんを膝の上に下ろした。


 人工皮革製のかばんの黒い面には、白の油性ペンで汚い罵り言葉が殴り書きされている。特に目立つものは『ブス』『根暗』『気持ち悪い』『死ね』――それらの文字は女子高生の努力の結果、かなりにじんで薄まっている所もあったが、文字として読めないところまではいっていない。

 どれもがこれまで何度も聞かされてきた言葉だ。放課後、クラスの女子グループにトイレに連れ込まれてバケツの水をかけられたときも同じような言葉で罵られ、嗤われた。側溝に捨てられていた教科書の表紙に書かれていたこともある。

 そして帰宅しようとしたらかばんがなくなっていて、ゴミ箱から拾い上げたときにはこうなっていた。


 はじめのころ、担任の女教諭に相談したが、無視していればそのうち飽きて、なくなると言われただけだった。

『みんな、受験のストレスでこの時期は変なことを考えたり、ついしてしまったりすることがあるの。分かるわよね、あなたも受験生なんだから』

 だから心を広く持って、多少のことは大目に見てあげて、ということだろうか。みんなのストレスのはけ口になれと先生は言っているのだろうか。

 『きっとすぐに彼女たちも自分のしていることに気付いて、止まるから』女教諭は彼女に同情し、さも親身になっているような態度で『あなたがつらいのは分かるわ。いつでも相談に来て』と肩を抱いて言ったが、疎ましく思っているのは透けて見えた。


『ただでさえ忙しい時期なのに、この程度のこと持ってこないでよ』


 ショックはなかった。ただ目頭がじんわりと熱くなって、むなしさが広がる。

 父親は彼女が小学生のころ病死した。父親の分もと昼夜問わず休日返上して働いて、大学資金まで用意してくれた母親には、言えるはずもないことだ。今日も濡れた制服やこんなかばんを人に見られたくなくて、学校のトイレに隠れていたせいでこんな時間になってしまったけれど、母親は夜勤に行って朝まで帰らないから、きっとばれない。


 彼らがイジメをやめることに期待は持てなかったが、希望はあった。終わりは見えている。2月になればほとんど通学しなくてもいいし、3月になれば彼らと離れられる。

 卒業までの我慢。


「……でも、まことくんと会えなくなるのは、ちょっといやかな……」




 規則的な電車の揺れに、いつの間にか目を閉じていた。うつらうつらとした浅い眠りが、ガタンと車両が大きく揺れる音で破られた。

 はっとして、あわてて腕時計に目を向けると1時間近く時間が経過していた。

 彼女が電車に乗るのは3駅だ。

 やばい、乗り過ごしたと急いで電車を降りる。

 おかしいと気付いたのはそのときだった。


 見たことのない木造の構内。夜中の最終電車だったはずなのに、対向車線を挟んだ向かい側の駅舎の窓から入ってくる光はまろやかなクリーム色をしている。構内自体、夜の暗さがにじみ入ってくるのを拒絶する人工的な明かりというよりも、強い西日を受けた、どことなく黄色みを帯びた朱赤の夕暮れを思わせる自然な明るさに染まっているように思えた。

 窓の向こうの景色も不思議で、すすきのような背の高い草が生えた草原の向こうに数十階建てのビルが幾つもあり、そのどれもが半壊している。


 まばたき、寝ぼけているのかと目をこする女子高生の後ろでプシュッと圧力が抜ける音がして、電車のドアが閉まる。電車はガタゴト走り出し、駅から出て行ってしまった。

 辺りを見回すが、この駅で降りたのは彼女だけらしい。人影はどこにもなく、構内に立っているのは彼女1人だけだ。

「どうしよう……」


 彼女が真っ先に思いついたのは、対向車線の電車に乗り換えることだった。階段はないかと左右を見ると、渡り回廊がある。電車が来る前に急いで階段を上がって渡り、向かいのホームで時刻表を探して見た。

「……えっ」

 時刻表に書かれていた駅名らしい太文字は、大部分がかすれて読みにくかったが、『よいのみや』とあった。

 そんな駅名は知らない。時刻表の上にある古めかしい路線図も、知った駅名は1つもなかった。

 乗った駅名もなく、自宅のある駅の名もない。このまま来た電車に乗っても意味がないように思えた。

「そんな……」

 愕然となった手からかばんが落ちる。


 現代ならばスマホをかけて誰かに迎えに来てもらうこともできるだろうが、この時代、ポケベルもまだ存在せず、電話といえば公衆電話しかない。


 彼女が混乱しかけた頭で公衆電話を求めて視線をさまよわせたときだ。

 突然背後から子どもの声がした。


「おねえちゃん、どうしたの? こんな所で」


 どきりとして振り返ると、そこにいたのはフードパーカー姿の少年だった。歳は12~13歳くらいだろうか。

「……あ。えーと……」

 いつの間にこんな近くに? と驚く。足音がしなかった気がするが、自分の考えばかりに気を取られて、気付けなかっただけかもしれない。

 にこにこと屈託ない笑顔で見上げてくる少年は無邪気でかわいくて、悪い感じはしなかった。


「実は、降りる駅を間違えちゃって。どう帰ろうか、考えていたの」

 少年は「ふーん。そっか」と応え、帰り方を教えてくれた。


「簡単だよ。願えばいいんだ。ここの駅は昔からひとの願いを聞くのが大好きで、聞かせてもらうかわりにその願いをかなえてくれるんだよ」

「ええ?」

「信じられない? だよね。今までここに来た人たちも最初はそうだったから。

 でも、まあとにかく願ってみてよ。信じられなくても、言葉にするくらいできるでしょ?」


 少年の言葉を吟味して、「それもそうかも」と考えた。

(駅が願いをかなえてくれるなんて、突拍子もない話で信じられないけど、こんなに勧めてくるんだし、口にするだけなら……)

 彼女が乗り気になったのを感じて、少年は「「それで? 何をお願いするの?」と促す。

 家に帰りたいです、と言葉にしようとした瞬間。床に落としたかばんが目に入った。


「わたしの、願いは――……」






 数日後、とある高校の屋上で、前代未聞の飛び降り自殺が発生した。

 その数32名。

 警察による捜査の結果、受験戦争による過度なストレスからの集団飛び降り自殺と結論付けられた。

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