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第17回

 幼い憂喜には深く話さなかったが、山にいる恐ろしい巫女の霊たちとできた縁をできるだけ薄くするために憂喜の名字を変え、ここから遠ざける必要がある、と桐子が夫に告げたのだ。また、集落の者たちから憂喜を守るためでもあった。


 山にいる巫女の霊たちは恐ろしい存在であると同時に祟り神として祀る存在でもある。禁足の決まりを破り、山へ入った憂喜たちの行いは、信心深い年寄りたちからすれば許されざる行為であり、その結果勝喜と美喜が失われたのも自業自得。むしろこのことによって神の怒りに触れたのではないか、集落の者に災いが降りかかるのではないかと危ぶむ者も多かった。


『美喜がまだ見つかっていません。わたしは残ります。集落の者たちも、巫女であるわたしには手を出すことはできませんから、どうぞ気になさらず、あなたは憂喜を守ることだけ考えてください』


 わがままを言ってすみません、と桐子は両手をついて深々と頭を下げた。


◆◆◆


 1年、2年と過ぎていく。

 集落の者たちについては桐子の言うとおりだった。陰で彼女に対する不満をぼやく者はいたが、彼女を罵倒し、村八分にする者はいなかった。神事を執り行う彼女がいなければ集落における万事が回らず、不可欠な存在だったということがそれほどに大きかった。


 3年、4年と過ぎて、離婚して夫と最後に残った子まで失い、独り身になった彼女を表立って気遣う者もちらほら現れだし、表面上は昔に戻ったようになった。


 4年、5年過ぎても美喜は見つからない。お山に飲まれ、あの子もきっとあの巫女たちと同じ、お山の子になったのだと考え始める。それならばお山の巫女として、あの子も祀ってあげなくてはならないだろう。

 元夫からは1年に1度、近況を知らせる手紙が届く。6年、7年と過ぎても、それは変わらなかった。


 子を2人も失い、離縁され、生まれ故郷の集落から逃げるように出されて。手紙には1度も書かれていないが、きっと相当苦労したに違いない。思い出すのもつらい記憶だろうに、自分のことを忘れず、今もこうして気遣ってもらえるのはありがたかった。

 もう十分。あの優しい人こそ、いい人に巡り会って、今度こそ幸せになってほしいと心から祈った。


 8年目。憂喜が高校に入ったと手紙に書かれていた。県下でも有名な進学校で、誇らしいと。部活にも入って友人たちと毎日忙しくも楽しそうに笑っています。ようやくあのつらい出来事を忘れられたようです、と。


 その言葉は、桐子自身驚くほど桐子を打ちのめした。


 まだ7歳だった。忘れてもおかしくない。むしろ、つらい記憶が憂喜の中で心の傷にならずにすんで良かったと、母として、喜ばなくてはならないだろう。



 だけど。

 ああ、だけども。



「忘れた……? 忘れてしまったというの? 勝喜や美喜のことを。……生き残った、あなたが」



 その夜、初めて桐子は喀血かっけつした。

 おかしな咳が出ていることには気付いていた。長く止まらない。悪い病にかかったかもしれないと考えないわけではなかったが、それならそれで良いと思った。戻らない娘を思い、祀り、ひたすら祈るだけのこの無味乾燥とした日々を、終わらせることができると。


 一日の大半を山の上の神社で独りで過ごしていたから、手遅れになるまで集落の者に気付かれることはなかった。集落で唯一の巫女が病に倒れたことに皆慌てたが、桐子にはもはやどうでもいいことだった。

 じきに死ぬ自分には、何もかもどうでもいい。


 けれど違った。

 そうして気を紛らわすものもなく、ただただとこに伏していると、幸せだったころの記憶ばかりよみがえった。

 本当なら優しい夫と3人のかわいい子らに囲まれて、幸せに過ごせたはずなのに。なんとわびしいことか。



 今の自分には、看取みとってくれる者すらいない。




◆◆◆


「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 両手に伏し、泣きながら、憂喜は謝り続けた。

 ごめんなさい。

 忘れてしまって、ごめんなさい。

 だけど覚えているにはあまりにつらくて、記憶の底に埋めるしかなかった。



 なぜなら、美喜を殺したのは、自分だから。



 あの日。山頂の神社で見かけた巫女服姿の女たちに声をかけたのも憂喜だった。

 そのときは、母と同じ巫女服姿をしていたのでてっきり祭りにやって来た近隣の村の人だと思ったのだ。そうでなく、霊の集団だと気付いたときには遅かった。


 耳まで裂けた口でケタケタと嗤って黒い靄を噴き出す女たちに、勝喜が「逃げろ!」と叫んで憂喜の手を引っ張った。憂喜は美喜の手をつかんで、3人で走った。

 どこをどう走ったか分からない。ただもう怖くて。振り返ったなら、すぐ後ろに女たちが見える気がして。転ばないように足元だけ気にして走っていたら、いつの間にか勝喜とはぐれていた。


『こわいよう……こわいよう……』

 美喜はずっとぐずぐず泣いていた。母を呼び、父を呼び、勝喜を呼んで、わーっと泣く。

『泣くなよ。あの怖い霊たちに聞こえちゃうかもしれないだろ』

 何度言っても美喜は言うことをきかず、泣き止まなかった。

 今なら怖さのあまり美喜自身泣き止むことができなかったのかもしれないと思えるが、7歳児に他人の身になって考えるのは無理だ。

 自分だって泣きたいのを我慢してるのに、と腹が立ってしかたなかった。


 案の定見つかって、また走って逃げることになった。

 暗い夜の山を、走って、走って。

『もうやだ。走れない。美喜、ここにいる』

 美喜がむくれて走るのをやめた。その場にしゃがみ、不満げにぷーっと頬を膨らませる。

 憂喜もついに癇癪を起こして叫んだ。

『ここにいてどーするんだよ!』

『おとーさんが迎えに来てくれるもんっ』

 そうだったらどんなに良かったか。けれど、幼い憂喜でも、その前にあの怖い女たちに見つかるだろうことが分かった。

『いいから立てよ! 行くぞ!』

 行く、いや、のやりとりを数回して、言うことをきかない妹に腹を立てた憂喜が、手をひっつかんで乱暴に引っ張った。

『立てってば!』

『やだっ、て――』

 美喜が振り払う。憂喜の指が外れた瞬間、美喜の体が後ろに大きく傾いた。

 あ、と思った。

 美喜はそのまま後ろの闇に吸い込まれて消えて、直後、ざざざざっと重い何かが葉の積もった地面をどこまでも転げ落ちていく音が長く続いた。

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