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第16回

 そんなはずない。


 見間違いだと。10年会っていないのだ、分かるものかと、胸の中で幼い憂喜が泣きながら拒絶を叫ぶ。

 けれども黒靄に包まれた巫女服の女は、まぎれもなく憂喜の母、桐子だった。


「どうして……」


 どうして、死んだの?

 どうして、俺を憎んでいるの?

 殺したいほど……。


 食い入るように見つめる憂喜の前、母の口が、何か、言葉を紡いだように見えた。

 だがそこから吐き出されるのは黒靄ばかり。





 霊の言葉は、憂喜には聞こえない。





「あ……っ! ああっ……、あ、あ、あーーーーーーーっ!!!」

 心臓が痛い。

 息ができない。

 身を折り、よろめいた、そのときだった。


 ぱしんと高く、鋭く、穢れのない柏手の音が響いた。




 音はきらきらとした光の粒となって辺り一面に降りそそぐ。光に触れると、つらさが少しだけ、軽くなった。ほんの少し、悲しみが消えて、ほんの少し、胸の痛みが軽くなって、ほんの少し、息が吸えるようになる。

 身を立て直し、面を上げて、こぼれ落ちる不思議な光を手のひらで受けた。


 若い女の凜とした祝詞が空間を打つ。


たてまつの柏手に、来たりましませ外山の戸山津見神とやまつみのかみ

 掛けまくもかしこ皇神すめがみの大前に畏みもうさく。

 高き尊きみましのる所に宵の闇といふ穢れ現れ出でて過ち犯し、諸諸もろもろの罪咎あらんをば、これを祓い清め晴らさんこと許し給えと恐み畏み白す」


 その声が河原で会った少女・未来のものだとこのとき憂喜は気付けなかったが、この声が安倍の言っていた「」だと直観した。

「坊っちゃん、もう大丈夫でっか?」

 その声で、白狐の存在を思いだした。

 すっかり念頭から消えていたが、憂喜が衝撃を受けている間、ずっと彼を守って黒靄と戦ってくれていたようだ。

 すばしっこく宙を飛び跳ねて黒靄をかわしては憂喜へと向かう黒靄を噛み散らす。

「出口までもうひと踏ん張りやで。気張って走りやっしゃ!」

「……ごめん。ありがとう」

 身を翻し、憂喜は走った。




 そうだ。安倍は走れと言った。自分にしかできないことがあるとも。

 安倍がそう言ってくれたから、だから自分は走っているのだ。


 光が見えた。

 光から、すがすがしく清らかな風が吹いてくる。

 風とはこういうものなのだと思いだし、胸いっぱいに吸い込んだ。


 いつの間にか足元から道が消えていた。田畑が消え、山が消えていた。時の止まったたそがれ色の中を、ただ懸命に前だけを見て走り抜ける。

 光が大きくなるにつれて、光の脇に人影が見えた。

 憂喜の邪魔をしないように、その進路から身をずらして立っている。

 河原で憂喜に米粒を投げつけた、茶髪の少女だった。茶髪の少女は随分と今風に洗練された意匠の巫女服を着ていて、それがふわりと広がった茶色の短髪によく似合っていた。


 茶髪の少女は憂喜の後ろをにらみ据えて視線を外さず、右手を口元へ持ち上げる。右手には白い札のような長方形の紙があり、人差し指と中指ではさんだそれを唇に軽く触れさせると、ふっと息を吐いた。



「神の御息みいきはわが息、わが息は神の御息なり。

 御息をもってひとたび吹かば、あらゆる穢れは在らじ、残らじ」



 白い札が、まるでそれ自身が意思を持つかのようにひらりと宙を舞い飛んで、憂喜の頭上を越えていく。そして背後に迫っていた女の額にぴたりと貼りつくや、女が悲鳴を上げた。



   ――ア アア……



 空間を揺るがす金切り声。黒靄が剥がされていくたび、苦しみ、もだえながらも女は、憂喜の背へと手を伸ばす。

 光をくぐる瞬間、その長く干からびた腕は、届いたかに見えた。


◆◆◆


 強い白光のまぶしさに、目を開けていられなかった。

 まぶたを透過して届く白い光の中、憂喜は故郷の風景を視た。近所のおじさんおばさん、遊び仲間だった同じ学校の子どもたち。みんなお祭りの衣装を着て、少しだけ普段のときよりおめかしをして、そして山へ向かっていた。

 山からは祭り囃子がしていた。


 30年に1度行われるというその祭りでは、その日山へ入ることができるのは大人の男だけというのが昔からの習わしだが、実のところ高齢化の進んだ今の集落では、祭事の全てを男手だけでやることは不可能だった。そのため女たちが山裾でこまごまとした雑用をこなし、子どもたちは母や祖母の目が行き届くように小屋の近くで遊ぶようにと厳しく言いつけられていた。

 そんな中、唯一の例外として入山を許されていたのが憂喜の母である。


 神事を行える斎主が彼女しかいないのだから、それは仕方のないことだったろう。

 両親ともに不在。他の人手も祭りに集中する中、勝喜、憂喜、美喜の姿がどこにもないことが発覚したのは、すっかり日が落ちてからだった。


 兄弟と仲の良い子どもたちが、昼間、勝喜と憂喜が山の祭りに興味を示していたということを話した。また別の子どもたちが、3人で山へ向かって歩いているのを目撃したとも証言した。


 大人たちは蒼白した。昼の陽の下でも恐ろしい山だ。そこへ入らなくてはならないのかと、探るような目で互いを見合った。正直、行きたくはない。だが幼子のためだ。それに、小さな集落では、もはや全員が親戚のようなものだった。

 男たちは片手に提灯、空いた手に鎌や猟銃を握り締め、暗い夜の山へ分け入った。


 入って早々に、次男の憂喜が見つかった。全身泥まみれで、ふらふらと獣道を歩いているところを保護されたのだ。父親が名を呼んでも一言も言葉を発することができないほど疲労しており、そのまま父親の腕の中で意識を失った。安堵が大きかったのだろう。

 長男の勝喜はそれから2時間後見つかった。こちらは憂喜のようにはいかず、血だまりの中で無残な姿だった。見つかった部位よりも見つからない部位のほうが多かった。きっと熊に出くわしてしまったに違いない、ということになった。


 末子の美喜だけが、いくら捜しても見つからなかった。


 目を覚ました憂喜に聞いても「知らない」と言う。

 勝喜とはぐれてからしばらくは一緒にいたけれど、怖いおばさんたちに追いかけられて、気付いたら美喜ともはぐれていた、ということらしい。


 それからしばらく入院して、やっと家に帰ってこれたと喜ぶ憂喜に、両親は離婚することを告げた。


『おまえは父さんと一緒に、ここを出て行くのよ』

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