「おまえ――」
どうしてここに? と問おうとした言葉は、ものがはっきり見えるようになった瞬間別の言葉に置き換わった。
「どうしたその頭!? 白メッシュなんか入れやがって! 風紀の松センにどやされるぞ! 陰キャのおまえがそーいうことに関心があるってマジ意外だけど、にしたってしたいんなら夏休み入ってからにしろ!! 受験生の自覚あるのかっ!!」
上から頭をがしっとつかんで、内申書ガー、とまくしたてる。
予想外からの憂喜の勢いに押されて安倍は一瞬固まったようだったが、すぐに後ろへ引いて手を外させた。
「なんだ、まだそんな減らず口きく元気があるんだな」
感心した、との裏の意が読める言葉に、憂喜はがくがく震えている膝頭をぐっと押さえて、気取られまいとする。
ここに安倍がいなかったら。憂喜だけだったなら、こんなやせ我慢を張ろうとせず、へたり込んでこの場から二度と動けなくなっていたかもしれない。少年の死の真相という衝撃はすさまじく憂喜の心を打ちのめした。背筋はいまだ冷や汗でびっしょりだし、頭はぐらんぐらん揺れている。
(……いや、そもそもこいつがいなけりゃ、あそこから抜け出せてもないか)
憂喜はにやりと笑い返し、「目」と自分の目を指した。
「やっぱ、金色じゃん、おまえ」
安倍はぱっと目元を押さえる。直後、「しまった」という空気を出した。こんな反応をしてしまっては「うそをつくな」と言うこともできない。
己の失態にチッと舌打つ。そして安倍は、後ろから飛んできたボールか何かを手のひらで打ち返すような仕草で乱暴に手を払った。
「それだけ元気なら走れるだろ。走れ」
「え?」
憂喜は目をしぱたかせ、安倍が見ているほうへ視線を投じる。そこには、夕焼けに染まった空と山を背に、黒い靄を発する何かがいた。
ゆらゆらと夏日の陽炎のように立ちのぼる靄の下で、人の形をしているのだが、それ自身が靄でできているように真っ黒い。伸びたり縮んだり。うねうねと触手のように動く靄の濃淡でどうにか分かる輪郭線から、長いざんばら髪を下ろした4人の女たちであると判断できた。
「……っ!!」
「あわてるな。雑魚のこけおどしだ。見かけだけは立派だが、あいつらにそんな力はない。負けるかとにらみ返せ」
安倍に言われるままにらみ返すと、4人の後ろに小太りの女――大兄ちゃんを食った女だ、と憂喜は気付いた――、そして彼女とは対照的に痩せ細った枯れ木のような女の巨大な上半身が浮かぶ。2人の女は榊の採り物を手に、激しい怒りと憎悪の浮かんだ形相でこちらを見ており、口々に何かわめき立てていた。
「耳を貸すなよ、しょせん、死んだ女の戯れ言だ」
「……いや。俺、聞こえないし」
「あー、そうだったな」
手前の女から伸びてきた靄を、やはり手で払い返し。
「じゃあ気を取られずに走れるな。走れ。ここは俺が引き受けた」
「は? おまえ、何言ってん――」
「適材適所ってな。おまえには、おまえが向き合わなくちゃいけないものがある。それは誰にも肩代わりできない、おまえだけが対処しなくちゃいけないことだ、安心しろ。
安心して、今はめいっぱい逃げろ!」
後ろ手でどんっと突き放される。2人の間を別つように靄が飛んでくる。
よろけた先で慌てて安倍を見ると、彼は素手で黒靄の攻撃を捌いていた。
しびれを切らしたか、甲高い奇声を発して爪をむき出しに飛びかかってきた女の攻撃をいなして腕をつかむ。黒靄の塊である女の腕は、その瞬間に霧散した。
「早く行け!」
「ったって、どこへだよ!?」
「あれが――」
言い返そうとした安倍がすんでで言い直す。
「こいつについてけ」
ズボンのポケットから試験管を取り出して、ゴムのふたを指でねじり開ける。中から小さな白い渦のようなものが飛び出したと思うやみるみる拳サイズになり、憂喜の鼻先でぽんっと赤い目の白狐に変じた。
白狐は憂喜と目を合わせて3本の尾を一振りし。
「おこんにちわぁ~」
なんとも間の抜けた声を発する。
「お初にお目にかかりますぅ~。あては――って、ぅわちゃあ!」
白狐が目をひん剥いて首を縮めた直後、その耳の間をかすめるように黒靄が飛んだ。
黒靄をつかんで散らした安倍が、肩越しに振り返ってじろりと白狐をにらむ。
「い、今はあいさつしてるときとちゃいましたな。
さあ坊っちゃん、あてについて来ておくんなまし!」
手のひらサイズの白狐が現れて、3本の尾をふりふりついて来いと宙を飛び跳ねていく。なんたるファンタジー。
「はは、は……」
今さらだ。考えることは放棄して、あとについて走った。
あんな悪意の塊たちの前に安倍だけ残していっていいのかと、頭のどこかで良識が問う。あれは自分に対する悪意。安倍は無関係で、なのに安倍一人に押しつけて。自分は逃げだしている――また。
――マタ ニゲルノネ アナタダケ
しゅるると伸びてきた黒靄が憂喜ののどに巻きつこうとするのを白狐が止めた。
「あんさん、しつこおますなあ」
黒靄をかみ砕きながら白狐が、追ってきた宙の巫女に向かってあきれたように言う。
枯れ木のようなしぼんだ体をしたその巫女は、黒靄よりも暗く、全ての光を吸い込むように昏い両の眼窩から黒靄を吐き出し、そしてぽっかり開いた口蓋から呪詛という黒靄を吐き出していた。
変わり果てたその姿に、憂喜は心臓を引き絞られるような痛みを感じて胸元をわしづかむ。
(――やっぱり。でも、どうして……)
「……どうしてだよ、
叫ぼうとした声は、しかしかすれたつぶやきにしかならなかった。