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第64話「よるはたたずむ」

 さわり、と頬に何かが触れた気がして颯真はゆっくりと目を開けた。


「……」


 視線を横に投げると、小動物サイズの黒い影がまるで颯真の頬を舐めるかのようにすり寄っている。


——【あのものたち】?


 闇が実体を持ったような姿はどう見ても【あのものたち】。しかし、この小さな【あのものたち】は颯真に殺意を持つでもなく、ただ動物の親が子を励ますかのように頬を舐めてくるだけ。


 ゆっくりと、颯真は体を起こした。

 周囲を見回すと、そこは草地らしく、柔らかな草が生い茂り、ところどころに見覚えのある可憐な花が咲いていた。

 その草地の只中で、颯真はまるで草を寝床にするかのように倒れていた。


 颯真の頬を舐めていた小さな【あのものたち】がぴょこん、と立ち上がり、颯真の膝の上に乗る。

 恐る恐る颯真が手を差し出すと、小さな【あのものたち】は噛みつくどころか、まるでじゃれつくように颯真の手に頭を擦り付け、次の瞬間、すっぽりと手の中に納まってくる。

 小さな【あのものたち】を片手で抱き、颯真は傍らに落ちていた刀を拾い、立ち上がった。


「ここは……」


 刀を鞘に納め、呟く。

 空は黄昏時のように薄暗いが、周囲にはぼんやりと光る岩が転がっており、視界は悪くない。

 周囲に生える草は図鑑で見たことがあるな、と思いつつも、颯真は新人チームで座学を受けていた時の内容を思い出した。


——この「地球」と呼ばれる惑星には表と裏、二つの世界がある。表は我々が住む世界、裏は【あのものたち】が生きる世界——。


 誠一の言葉を思い出す。表と裏、二つの世界には共通するものがある。


——動物の一部や多くの植物は二つの世界で連動している。例えば表の世界で花が咲けば、裏の世界でも同じように花が咲く。少なくとも、アポロは裏の世界をそう観測している——。


「ここは……裏の世界……」


 かすれた声で颯真が呟く。

 黄昏時から開き始め、夜の八時ごろには最大に開かれる二つの世界をつなぐ「通路」。それは夜明け頃に閉じ始めるので、【あのものたち】は夜明けとともに撤退する。

 その際に深追いすれば、【あのものたち】が通り抜ける通路に接触し、裏の世界へと転がり落ちる——。


 そういうことか、と颯真は納得した。

 あの時、颯真は人の姿を模した高位の【あのものたち】を倒すべく深追いしてしまった。

 そのために通路に足を踏み込み、裏の世界へと移動してしまった、というのは深く考えずとも理解できる。


 しまったな、と颯真は薄暗い周囲を見回しながら考えた。

 今まで、自分はそこまで熱い人間ではないと思っていたのに、【ナイトウォッチ】に入隊してからの颯真は熱い思いで突き進んでいた。その熱さ故に我を忘れ、深追いしてしまった。


 もう、戻れないのだろうか、とふと考える。

 ここが裏の世界であるなら、周囲は【あのものたち】に満ちているはずである。実際、今、颯真の手の中には小動物のような【あのものたち】がくつろいでいるし、周囲の花にもクロアゲハのような昆虫型の【あのものたち】が集まっている。


 それだけを見ると、この裏の世界はとても平和に見えた。

 薄暗い世界の中で、ぼんやりと光る岩は、颯真たちが住まう表の世界には存在しない物質なのだろう。そういえば【あのものたち】を信奉する【黄昏教会】の面々は光る特殊な塗料で紋章を描いていた。光の色が同じなので、もしかするとこの岩から作られた塗料かもしれない、と考えてみたりする。


 ——と、突然、颯真の手の中でくつろいでいた小さな【あのものたち】が何かの気配を感じたかのように立ち上がった。

 耳のような部位をぴくぴくと動かし、それから逃げるように颯真の手から飛び降り、どこかへ走り去ってしまう。

 待って、と追いかけようとした颯真の動きが止まる。


「——誰!?」


 刀に手をかけ、颯真が叫んだ。

 颯真の周囲でゆらり、と影が揺らめく。

 【あのものたち】だ、と颯真は瞬時に判断した。

 それはそうだろう、ここは【あのものたち】が住まう裏の世界。人間に匹敵する存在がいるとすればそれは【あのものたち】に他ならない。


 口の中で小さく【解放Release】と呟き、内なる自分の魂を燃え上がらせる。

 攻撃してくるなら戦わなければいけない。過去にも裏の世界へと迷い込んだと判断された隊員は何人かいたようだが、彼らが助太刀に来るとは期待しない方がいい。【あのものたち】のホームグラウンドで戦い続けるなど、無謀にもほどがあるとは分かっていたが、それでも颯真は戦うことを決意していた。


 他の隊員は戻れなかったかもしれない。でも、僕は必ず生還する、その意志が刀を光り輝かせ、鋭くさせる。

 帰還できないかもしれない、と絶望するわけにはいかなかった。何があっても、颯真は表の世界に帰還する必要があった。


 それはひとえに冬希のため。

 父親が目の前で逮捕され、冬希自身も恐らくは拘束されただろうが、それでも冬希は颯真の帰りを待っている。少なくとも、颯真はそう信じていた。


 必ず帰る。帰り方は分からないが、【あのものたち】が表の世界に移動できるのだから自分も移動できるはずだ、と颯真は自分を奮い立たせる。


 じりじりと、【あのものたち】が颯真に近寄ってくる。

 刀を握り締め、居合の構えで【あのものたち】を見据え、颯真は攻撃のチャンスをうかがう。


——冬希さん、待ってて。


 そう、自分に言い聞かせ、意識を集中させる。

 ——と、【あのものたち】の動きが止まった。

 颯真の刀の間合いよりも、少し先の位置で止まる【あのものたち】。

 居合でダメージを与えることはできないが、一歩踏み出せば確実に当てられるその位置で、【あのものたち】は立ち止った。


「……」


 颯真の額を冷汗が伝う。

 踏み出せば、確かに【あのものたち】を斬ることができる。

 しかし、踏み出してはいけない、と颯真の心の内、いや——


『待て、颯真』


 いつもの声が、颯真を制止していた。

 ごくり、と颯真の喉が鳴る。

 一触即発の、どちらかが動けばどちらかが倒れるまで戦うことになりそうな張り詰めた空気。

 風一つない沈黙が、辺りを支配している。


 ——だが。


「落ち着け、わたしは敵ではない」


 突然、【あのものたち】が言葉を発した。


「——っ」


 思いもよらなかった言葉に、颯真が一瞬躊躇する。

 「敵ではない」——今まで、散々殺し合ってきたのに? という疑問が颯真の胸を過る。

 しかし、その疑問とは裏腹に、颯真の魂はすとんと静まり返っていった。


 刀にまとわりついていた金色の光が霧散し、魂技の解放が解除される。

 ほぼ無意識のうちに、颯真は構えを解き、低くしていた体を上げ、立ち上がった。


「……敵じゃない……」


 何故か、颯真は納得していた。

 目の前の【あのものたち】は敵ではない。味方とも断言できないが、少なくとも自分に敵意はない、そう、理解していた。

 それは、あの小さな【あのものたち】や昆虫型の【あのものたち】の営みを目の当たりにしてしまったからだろうか。


 【あのものたち】だからといって、全てが人間を攻撃する敵ではない、という考えが颯真の中に広がっていく。

 颯真が構えを解き、立ち上がったことで目の前の【あのものたち】も緊張を解いたようだった。


「少し待ってくれ」


 そう言った【あのものたち】の姿がぐにゃりと揺らぎ、変わっていく。

 数秒後、そこには一人の男性の姿があった。

 見た目は成人男性、しかし服装は日本人男性が身に纏うような一般的なものではなく、どちらかというと外国人のような、エキゾチックさを感じさせるものだった。


「……」


 颯真が目の前の【あのものたち】男性を凝視する。

 高位の【あのものたち】が人間に擬態できることは知っている。そう考えると、目の前の【あのものたち】も高い知性を備えた高位の存在なのだろう。

 しかし、ここへ迷い込む前に戦った【あのものたち】とは全く違う。


 颯真に対して敵意も殺意も一切持っていない。意図は全く分からないが、少なくとも敵ではないことだけは分かる。

 男性の姿になった【あのものたち】は颯真に小さく頷いてみせた。


「この姿の方がきみには馴染みが深いだろうし、人間と対話するにはこの姿の方が話しやすいからね」

「貴方は、一体——」


 思わず颯真がそう尋ねる。

 「人間と対話するには」ということは、この【あのものたち】は対話を望んでいるのだろうか。

 そう考えると、颯真の体に一気に緊張が走る。

 自分なんかが【あのものたち】と対話する人類代表になってもいいのか、そんなことを考えてしまったからだが、【あのものたち】もそれに気づいたのだろう、その顔に苦笑を浮かべる。


「そんな、交渉とかそういったものは今は考えなくていい。とにかく、今、わたしはきみと話がしたいんだ。だが、ここにいては何が来るか分からない。だから——わたしの家に来てくれないか?」


 先ほどから、颯真の想定を超えることばかりが起こっている。

 まさか、【あのものたち】の家に招かれるとは。

 しかし、ここでその誘いを断ったとしても颯真には行くところがなく、それこそ【あのものたち】が言うところの「何が来るか」も分からない。

 それなら、誘いを受けた方が一番生存率は高いだろう。

 そう判断し、颯真は、分かりました、と一つ、頷いた。

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