今は空き部屋となった、モンテス公の執務室。
ローリーは物思いにふけりながら、入室し、書架に向かう。ローリーは足置き台に登って、隠してある自己の日記を取り出した。
そこにはブレイク王国中を騒がせた、流星騒ぎが克明に記されている。ローリーはあの時に味わった、人類滅亡の恐怖をありありと思い出す。
日記はそこで終わっている…いや、真新しいページの右下、日記と無関係に、木炭筆の殴り書きが見つかった。
―バスチオンは仲間だ。信じろ―
自己の筆跡。しかし、思い出せない。いつ、記したのか。誰が記したのか。じっと見る。間違いない。自己の筆跡。
僕は心労から何か大切なことを忘れてしまっている…?何かとてつもなく、大切なことを…。
不意にユディスの謎の言葉を思い出す。
あれはまるで、何者かがユディスの口を借りて無理にしゃべらせたかのような、不可解な一言だった。
「バスチオン…バスチオン…」
ローリーは独り、つぶやく。システムが共鳴するかのように、瞬いた。
ローリーは王室領に戻ったが、儀式や会食に身が入らない。公務を済ませると慌ててメディナ領に向かう。
王妃はローリーにかまってもらえず、とても寂しい思いをしていたが、平気なそぶりで国王を見送る。
トレッサは眠っていた。ローリーの心に小さな安堵が生じたが、すぐにその心に不安と疑念が渦巻く。
トレッサを苦しめているものは何なのか。もしこれが、システムの幻視ならば、一体誰が、異能をトレッサに授けたというのか。
ローリーはとしごの妹に固執するあまり、国王としての仕事をおろそかにしてしまっていることに気付く。
しかし…ローリーは誓っていたのであった。トレッサを守るという騎士の最初の約束さえ果たせない自分では、誰かのために役立つことはできないと。
身動きの取れなくなってしまった自分を、情けなく悔しく思う。
その時であった。トレッサがむくりと起き上がる。まるで操り人形のような、前触れのない動きであった。
「トレッサ!」
兄妹の目が合う。妹は笑った。
「…トレッサ!?」
「お兄さま、アナタは確かに、この世界に強い影響力を振るっているわ」
「えっ…?」
「悪魔が、アナタに執着した理由がよくわかる」
「な…何を言っているんだい?トレッサ!?」
トレッサの口を借りて、何か別の存在がローリーに語り掛けている。
「あの悪魔を、呼び出しなさい。それが出来ないのならば、世界からまずアナタの影響を取り除きます」
トレッサの身体がふわりと浮かび上がる。それは重さを無視してふわふわと漂っていた。
「さあ、選びなさい」
ローリーは驚き、恐れるが、身構える。システムを展開する。
「君は…何者だ。僕のトレッサに危害を加えたら、許さない!絶対に!」
トレッサは邪悪な笑みを浮かべる。
「ワタシは天使。世界の管理者。創造主の愛した庭を、土足で踏み荒らし、調和を乱すモノよ…神の裁きを受ける時が、来ました」
トレッサの後方に、白熱する光の輪が生じ、部屋を輝きが満たす!
少年の目が、眩む。
ローリーが目を開けると、そこは見慣れた、終わりのない空間の中であった。
そう、システムが作り出した空間。ローリーの内面世界と言ってもよい。
「…天使。…天地創造の時より、システムを使って、私たち人間を導いてくださった、天使様ですね。なぜ…どうして、こんなことを!?」
ローリーの目の前に、異形の女性が浮遊している。
その姿は醜く恐ろしかったが、聖典の記述を正確に反映しており、一目してこの世ならざるものとわかる特徴を備えている。
手がない代わりに、大きく黒い翼を有している。足は三本。その身体には何もまとっておらず、顔と、胸に大きな穴が開いてしまっており、その穴は呼吸に合わせるようにゆらゆらと動いていた。
「バスチオンは、ワレラの禁を犯して、世界に介入した。アナタはその特別な力によって、人間の未来を改ざんしてしまった」
「僕が、人間の未来を…改ざんした!?」
「たとえ滅びの未来であろうと…天使がそれを変えることは許されない。それは創造主が予定していない、不具合です」
天使はローリーを見つめるように、首を傾げた。
「悪魔を呼び出しなさい。バスチオンを。カレはこの世界に潜んでいる。ワタシにはわかる」
「…バスチオン!?」
「カレはあなたに執着している。幼稚で、考えなしの愚行。さあ、バスチオンを呼びなさい」
ローリーはバスチオンという人物を、知らない…思い出せない。システムを用いて検索をするが、その人物について情報を引き出すことが出来ない。
その時、ローリーの心に、日記の走り書きがよみがえったのであった。
―バスチオンは仲間だ…信じろ。
「呼び出せずとも、良い。アナタの影響はどのみち、この世界から排除せねばならない」
天使は語った。
「アナタを排除すれば、アナタに執着していた悪魔も、この世界との結びつきを失う」
「待ってください…僕は、何か大切なことを忘れてしまっている様です!天使様。それでも僕を、この世界から排除すると言われるのですか!?」
ローリーは膝をつき、祈りの姿勢。後光を帯びた天使を、見上げる。
「大切なことを忘れた?かわいそうな人間。アナタは利用されているのです」
天使は少年へと優しく語りかける。
「アナタは悪魔の傀儡にすぎない。アナタの記憶は、悪魔に弄ばれているのです。まだわかりませんか?それがどれほど許しがたい罪であるのか」
「…」
「バスチオンは、アナタの敵です。アナタの心を侵すもの…人間の心を、弄ぶもの。それは許されざる敵です。神の庭園を踏み荒らすもの」
「天使様…」
「それは悪魔、ワレラの敵」
羽ばたく天使の前方、エネルギーが収束し球形となる。それは今まさに、ローリーに向かって放たれようとした。
「アナタを消してしまう事、それは創造主のご意思に逆らった結果となる。しかし、それもやむをえない。あなたの影響力は、強すぎる。世界にとってもはや、有害」
ローリーの心の中で、何かが震える。
思い出せない。説明できない。
でも…!
「バスチオンは…敵なんかじゃない…バスチオンは仲間だ!僕は彼を、信じている!」
ローリーの身体を、システムの輝きが包む!それは天使の光球が少年の身体に放たれるのと、同時であった…!
少年が発した言葉…それはローリーの日記に書かれていた言葉だ。
ローリーの言葉は、記憶を引き出すための鍵だったのだ!
瞬時にシステム内に隠匿されていた情報が引き出され、少年はすべてを思い出す。
少年と老執事は、予期していたのだ。この状況を。
バスチオンと同じ高次の存在、天使が、禁を犯した者を抹消するため、この世界を訪れると。
だから少年は、バスチオンの記憶をシステム内部に隠していたのだ。
天使を攪乱するため、自らの意志で!
もちろん、ローリーが封印解除のパスワード自体を忘れてしまう危険性もあった。
これは、ぶっつけ本番のステップ。しかし、少年と老執事の息はいつだって、ぴったりと合うのだ。
突如バスチオンがシステムの輝きから躍り出し、優雅に着地。
ローリーの前に立ち塞がる!
この危機的状況にあって、その姿はあまりに華麗。
老執事の長い脚から放たれた、空間を切り裂くような回転蹴り。それにより光球は二つに割れて、システム空間の遠方で爆発。
「じい!」
「ぼっちゃま!」
「現れたか、バスチオン」
天使の口元が笑みに歪んだ。
「アナタはこの悪魔に弄ばれている。この悪魔は、人間を冒涜している」
「フッ…恐れながら…ぼっちゃまを出し抜くことは、そこまで簡単では、ございません」
バスチオンが肩を払いながら、答える。ローリーは天使を見つめたまま、言う。
「そうさ!同じ轍を踏むな。これはじいから教わったことさ。僕の記憶は、僕のものだ。システムだって、僕の道具に過ぎない」
少年と老執事は、ちらと目を合わせ、再び前方の天使を見据える。
「確かに、じいは…バスチオンは、僕を守るために、以前、記憶を操作した。大事なことを忘れさせた。それが、僕には我慢ならないんだ!いつまでも、じいに子ども扱いされることがね!」
不敵に笑う、少年とパートナー。
「だから僕は、同じ手は食わないよ!」
「そうか、なるほど。しかし、いずれにせよ、アナタガタをこの領域に引き込むことが出来た。一網打尽という訳だ」
バスチオンは思う。この天使に各個撃破されなければ、勝ち目はある…薄い勝ち目ではあるが、この状況こそ、バスチオンが望んだ状況であった。
バスチオンには本来、心というものはない。しかし、彼は眼前の少年、自信の腰ほどの丈しかない少年を、心強く思う。その後ろ姿から、自信を得る。
ローリーだって感じている。背後のバスチオンを。
そうさ。じいと僕が手を組めば、何だってできる。世界を変えることだって、出来る!
「じい…勝てるんですか?相手は神様のような存在なんですよ…?」
「準備は整っております…あとは、ぼっちゃま次第だ」
バスチオンが微笑む。それは少年が心からの信頼を寄せた、老執事のいつもの表情であった。