もはや滅亡の未来は避けがたかった。
いや、まだ間に合う…少年はこの世界が偶然から構成されていると信じて、あらゆる可能性をシステムに提示させた。
そこに、必ずや少年の望む未来があるはずなのだ…理論的には。
だがそれは巨大な図書館で、司書の助けなしに、本の中のたった一行の美しい詩を探すことに似ている。
いや、それよりもはるかに困難な作業である。
ローリーがバスチオンを振り切り、システムの扉をくぐる。
その瞬間、視覚以外の感覚が少年の身体から消失した。
ローリーは人間でありながら、システムの記憶領域にアクセスしたのだ。
ここではもはや、人間の感覚は正常に機能しない。
システム…世界が生まれ、創造主が去った後、この情報記録媒体を使って天使たちは世界を管理し、生命の観察を続けていた。
だからシステムには世界のありとあらゆる情報が記録されている。
ローリーはその膨大な情報の中に、まるで果て無い闇の中に、たった一人、放り出された。
天井などない。踏みしめるべき床もない…上も下もない、終わりなき空間。
慄く少年。おびただしい星々。煌めく星の様な、異なる結果。異なる世界。
そのまた向こうに、靄のように存在する、世界…世界…世界…世界…。
少年はあっというまに膨大な情報の海におぼれる。
そう、検索が出来ぬ、あまりに多い情報は、人間の様な小さな生命には無意味で、有害ですらある。
少年は、闇の中ですぐに目的を見失った。そして、自身の存在すらも、忘れてしまった…。
ローリーの身体が揺らめき、膨張し、薄くかすんでいく。消えていく…。
その時!少年の背を、黒く不定形な何かが抱きしめる。
それは亡霊の様な、怪物の様な、肉塊の様な…不気味な何かであった。
輝き爆発四散したかに見えた少年の身体であったが、ゆっくりと収れんし、色彩を取り戻し、形を取り戻していく。
「…バスチオン…」
ローリーは目覚め、辛うじて意識を取り戻す。
「バスチオン…あなたが、助けてくれたんですね」
呼びかけるたびに、少年の中に力が生まれた。
「あなたが、僕たち人間を、愛してくださったんですね…!」
少年を背後から抱きかかえていた、おぞましい黒い何かが震える。それは弱っている様だった。
ローリーは感じ取った。これが、バスチオンの本当の姿であると。
黒い何かが不意に動かなくなり、消えてしまう。ローリーは急激に寒さを感じて、たじろいだが、眼前の闇を見据える。
自分を見失ってはいけない。僕には、バスチオンがついている。右手を掲げる。球状の輝きが生まれる。
「…温かい…」
それは不思議な光だった。システムの青白い光ではなく、オレンジ色の、優しい輝き。
輝きが少し弱まり、それはいつしか本の姿になる。表紙が開かれ、ページが繰られていく。
そこから思いがけないものが飛び出した。
「おにいさま!」
ぼんやりと光る、としごの妹、トレッサの姿であった!
トレッサはローリーを抱きしめる。
「寒かったでしょう?おにいさま!私が抱いてあげるわ!」
「トレッサ!?何でここに…!?」
「私はいつだって、おにいさまのそばにいるわ。どんなに離れていたって…私はいつでも、おにいさまのところに飛んでいくわ!」
ローリーから離れてくるりと回り、気どってお辞儀をして見せるトレッサ。
「こ、こら!危ない!落ちる!トレッサ!」
慌ててトレッサの腕をつかむローリー。
「落ちっこないわ!だってここは、システムの作った世界よ!」
驚くローリー。だが開かれた本からから再び、光り輝く人物が飛び出した。
それは…亡くなったモンテス八世であった。
「父さん!」
「ローリー」
父は微笑み、ゆっくりと頷く。
ローリーの瞳に涙が光った。別れの時には、一滴も流れなかった、涙が。
「ローリー。あなたの言う通りです。人の数だけ、世界がある」
聞き覚えのある声に、振り向くローリー。その瞳が驚きに開かれる。もう一人…死んだはずの男が、不思議な力によって現れる。
「ファルドン先生!?」
師は優しく微笑み、愛弟子の手を取った。
「あなたの世界にも、私は居るのです。そして、ローリー。私たちは決して幽霊や、幻などではない」
それから、フードで顔をすっぽりと覆った少年が、ローリーの前に歩み出た。
「だって、世界は、共有できるから。あなたの世界を、皆で分け合うことができる」
「…フランシス、お兄様…?」
ローリーがゆっくりとフードを取りはらうと、歪んだ、しかし、愛嬌のある顔があらわになる。それは障がいを持って産まれたローリーの異母兄、フランシスであった。
「ここには、ありとあらゆる可能性がある。バスチオンの言う通り、それを峻別することは困難です」
本来、フランシスは言葉を発することが出来ない。しかし、彼はローリーの心に、直接語りかける。
「でもローリー。あなたは幼いころからシステムを扱ってきた。だからどんな人間よりも、他者を正確に捉える力がある」
フランシスが不意に空間の一点を指さす。その方向に、ローリーはひときわ輝く、星を認める。
「見えますか?一番明るい星が。あなたの出会ったすべての人たちが、光を発しているのです。だからあんなに、眩しいんです」
「お兄様!」
「呼んでいるんですよ。あなたを」
ローリーは歓喜とともにフランシスの手を取る。フランシスの骨格は歪み、笑顔を作ることが出来ない。しかし、彼は確かに、笑っていた。
「バスチオンには見えないのでしょう。あの光は、あなたにしか、見えない。さあ、あそこに行きましょう。ローリー」
不思議な本からは次々と人があふれ出てくる。
家族、騎士団員、メイド、官僚たち…止まらない。まるで湧き水だ。ローリーは驚き、しかしとうとう、笑い出した。モンテス城の人たち、グザールの…ブレイク王国の…いや、世界中の、ありとあらゆる、人たち。
「ローリー!」「ローリー様!」「モンテス公!」
輝く、人、人、人…人の渦、終わりのない空間に、ひしめき合う。
ローリーは声を上げて笑った。その胸には喜びがあふれ、爆発しそうなほどだ。
なんて素敵なんだろう…みんなが、いつも一緒だっただなんて。
僕の中に、これほどに豊かで美しい世界があっただなんて!
「行きます…僕は諸侯だ!リーダーだ!みんながいてくれれば、どんな未来だって、怖くない!どんな未来だって、手に入る!」
少年は一際、輝く星に手を伸ばす。
それこそは人々の輝きが検索してみせた、たった一つの可能性…たった一つの世界だった。
そうだ…ここだ…ここが、僕の…皆の望む未来…!
そして、システムの空間が、消えて、なくなる。
―人類滅亡まで、残された時間は、あと………不具合…が、生じ…この結果を…算出する前提は、失われました―
滅びのストーリーは、書き換えられたのだった。たった一人の少年によって。
やがていつもと同じ、朝が来る。
だがその朝は、特別な朝なのだ。ローリー・モンテスにとっては…。
ブレイク王室領。壮麗なる噴水前広場。
王国の姫君が、盛大な結婚式を挙行したのが五月。それはちょうど、ローリーの十歳の誕生日と同じ時であった。
金で飾り立てられた豪奢な4頭立ての馬車に乗り込む、ローリーとアストレア。
「凄い馬車ですね…こんなものに乗せてもらうなんて、夢みたいです」
ローリーが笑う。アストレアは妙にしおらしい。
「どうかしたんですか?アストレア様」
「…ローリー様。アストレアって呼んでくださいと、さっき言ったばかりじゃないですか」
「わかりました。では、アストレア。今日はいい日だね!」
「ええ、この上なく!」
王国軍が整列し、敬礼。ローリーを象徴する、ユニコーンの騎士が先導を務める。馬車の出発を、祝砲が告げた。
「約束が果たせてほっとしてます。アストレア」
「約束ですか?」
「ええ。あなたの花火で、戦争ではなく、お祝いをするって約束したでしょう」
ローリーは微笑み、アストレアの手を取る。
「もう…やめてください。ローリー様。私、幸せで…しんじゃいますから…」
少年を今すぐに抱きしめたい…けれど、アストレアはそっぽを向いてしまった。
花びらが撒かれる中、二人を乗せた馬車が出発する。
観衆はいつまでもその後姿を目で追っていた。喜びの声とともに。
そこには、常に少年に付きまとっていた影の様な、黒衣の執事の姿もあった。
ローリー様は、人間の未来を変えた。
ローリー様には見えていたのだ。この世界と人々との繋がりが。絆が。
ローリー様に、世界そのものを変えることはできなかった。私にさえ、そんなことはできなかった。
しかし未来はこうして変わった。
ただ、世界の見方が、変わっただけだというのに。
人間の想像力は、時に、神をも、超える。