世界にはすでに恐ろしい変化が生じていた。
世界は壊れ、もはや修復不能…誰の目にもそのように思われた。
人々は皆、建物に引きこもった。外出する事すら、困難になっていたからである。
月に巨大な隕石が衝突したあの晩から、なぜか夜が明けない。
時刻は正午を指し示しているものの、屋外は依然、夜の闇に包まれている。
月は世界に迫ってきており、巨大化。その色は不気味な赤土色に染まっていた。
地表に台風のように強烈な風が吹きつけ、気温は真冬のように低下していった。
これが世界の終末でなくて、何であろうか?
大きな貴族の邸宅、教会などは避難してくる人々を受け入れ、戸を閉ざしてこの世界を包む悪夢が終わることを待っていた。
モンテス城も同様である。
だからローリーは、次々に訪れる不安に満ちた人々に、優しく語りかけ勇気づけてやった。そして仲間を鼓舞し続けた。
これは神の試練なのだと。世界は、生まれ変わることが出来ると。
心を一つに、乗り越えることが出来ると。
誰もが、ローリーの言葉を信じ、祈った。
世界が終ろうとしているこの時に、少年の悲願が叶う。そう、人は祈りによって、一つになる…。
少年は独り、灯の乏しい暗い執務室で考えていた。
誰にでも居場所がある。
それゆえにリーダーは、全ての者が生きる意味を全うすることが出来るよう、希望を与え続けねばならない。
少年は領主となった際に、その様に誓ったのだ。己に。
世界は冷える…小さな命は皆、終わる…。
竜の予言はおそらく、成就するのだろう。僕たちは…人間は…滅びる。一人残らず。
その様な状況で、僕にできる事とはなんだ?
世界は…僕らを取り巻く環境は、変わってしまった。もはや以前のように優しい姿をしてはいない。
人間をまるで憎んでいるかのように…そんな恐ろしい世界の中にあって、僕が皆に与えられる希望とは一体、いか程のものだろう。
強い風が窓を鳴らしている。不気味な風を切る音がやまない。ローリーは寒気を覚えて、身震いする。
薄闇でもわかるほどに、吐く息が白い。
システムが現出する。部屋を幻の青い光が照らす。
僕は一生懸命に、皆のために頑張ってきたというのに…なぜ、こんな恐ろしく悲しい結末が訪れるのか。
神様など、やはりいなかった。僕らがすがってきたもの全て、偽りだったんだ…。
城の中は、静まり返っていた。
不意にローリーは部屋の隅に、なにか黒い不気味なものが蠢いているのを見つける。
それはまるで人間のように立ち上がり、ローリーの前に歩み出た。
「…じい…?」
「ぼっちゃま。お久しぶりでございます」
影の如き老執事であった。ローリーは飛び上がってバスチオンに駆け寄る。その体にしがみついた。
「じい!今まで、どこに行ってたんだい!?」
バスチオンは、かつてローリーに打ち明けている。
この老執事は実は、この世界の人間ではなく、この世界を観察する高次の存在なのだと。
これは嘘偽りではなく、真実である。なぜなら、バスチオンは魔法の情報端末であるシステムを利用可能であり、その機能をローリーにも利用させているのだから。
「じい!この世界を救ってください!お願いです!こんなひどい未来が訪れるなんて!」
バスチオンはローリーを見下ろして、優しくその髪をなでる。
「知っていたんですか?あなたは…バスチオンは、この恐ろしい未来を!」
「…知っていました」
「バスチオン、お願いです…世界を元に戻してください!あなたなら、出来るはずだ!」
「ぼっちゃま。結論から申し上げますと、私にはそのような力はありません」
ローリーはバスチオンの言葉に呆然とする。
「すでに隕石の影響で月の軌道は変化し、この世界も太陽から大きく引き離されました」
バスチオンは青白く発光するシステムのディスプレイを見つめる。それは世界と月、太陽の関係を描いたシミュレーション映像であった。
「私に、出来ることは、ありません」
静かに目を閉じるバスチオン。
「…そうか。…じゃあ…僕に…出来ることなら…まだ、残っているという意味かな?」
ローリーもまた、システムを見つめる。
「竜が語っていたんだ。この世界が出来る以前は、大きな星々がぶつかり合っていたんだと。月と、隕石が衝突したのは偶然なのかな?それとも、決まっていたことなのかな…」
バスチオンは頷く。
「ぼっちゃま。世界は様々な偶然の積み重ねによって作られた、という人もいる。一方で、すべての出来事はあらかじめ、寸分たがわず決められているのだ、という人もいる。一体、どちらが正しいのでしょうか」
少年は自身の半生を振り返ってみる。
ローリーの物語が始まり、彼は仲間と共にグザールにたどり着いた。それから様々な人物と出会い、別れを経験した。ブレイク王国の様々な場所を訪れた。それらすべての結果が、今、この時に集約されている。
「世界の滅びは避けられない…人の運命は、変えられない。そう、竜が言っていた」
バスチオンは、黙ってローリーを見つめる。
「バスチオン…天使であるあなたでさえも、それは変えられなかったのですね…あなたはかつて私に、そう告げていた。覚えています」
バスチオンがその正体を明かした時、ローリーは確かに、バスチオンの口からそのように聞いたのだ。
人間は最後には必ず、滅びてしまう。
だからこそバスチオンは、僕たちの世界にやって来て、僕を助けてくれたのだ。滅びの運命を、変えさせるために。
でも結局、僕は運命を変えることは、できなかった。
そんなことは無理だ…これはもっと大きな話なんだ。ちっぽけな人間の一生の様な話ではない。
この世界の外で起きている、星々のぶつかり合い、太陽や月の運行…そんな世界の話なんだ。
僕にできることは、せいぜい、人間の運命を変えることくらい。…いや、人間の運命さえ、簡単に変えることはできない。誰だって、自分の意思があり、自分の居場所がある。僕が他人の運命を変えるなんて、おこがましいことだ。
僕にできるのは…自分の運命を変える事…決めなおすことだけだ。
ローリーはふと、フリージアと一緒に見た夢を思い出していた。
フリージアは、僕を好いてくれた。だから僕は、フリージアと恋人になりたいと思ったんだ。
僕の人生がもし、違った道を通っていたら…僕とフリージアは、愛し合う男女として結ばれていた。
ぼくはその異なる未来を見た。そしてそれを、彼女と共有したんだ。
電流に打たれたかのように、ローリーはひらめいた。
バスチオンと目が合う。すると老執事はゆっくりと頷く。
「システムにできる事は、限られています。しかし、ぼっちゃまは想像力によってその機能を常に拡張し利用している」
システムが得意とすること。それはシミュレーション。前提条件を変更して複数の異なる結果を描く事。
「そうか…僕に世界を変える力なんてない。でも…世界の見方を変えることならば、出来る」
絶望を帯びていた少年の瞳に、輝きが戻った。
「バスチオン。力を貸してください。システムで、この世界のあらゆる可能性から、最良のものを選択し、観察します」
ローリーの声は興奮に震えていた。
「それこそが僕たちの世界…僕たちの、望む未来」
ローリーのバスチオンへの提案は、システムのシミュレーション機能を最大限に利用したものであった。
つまり、現在の滅びが迫る世界を、隕石衝突の結果がない別の世界へと交換する、という発想である。
この提案の前提には、世界の事象は偶然的に決定されており、無数の異なる可能性が同時に存在している、という考え方があった。
人間を取り巻く環境だけを、別の可能性にシフトさせる…そんなことは果たして可能なのか。
「バスチオン…あなたと話していて、わかったことがあります。人間は一人一人、自分の世界を持っている。人間の数だけ、異なる世界があると言ってもいい」
頷くバスチオン。
「そして、それぞれの世界を共有することも、可能だ」
バスチオンは目を閉じる。沈黙。少年の肩に優しく手を置き、やがて語りだす。
「ぼっちゃま。あなたの行おうとしている時空操作は、システムの本質的部分にかかわっている。危険な作業です。あなたの自我は失われる可能性が高い。私にとってそれは、耐えがたい喪失だ。なぜなら…私がこの物語に惹かれたのは、あなたが存在したからなのですよ。ローリー・モンテス」
少年を見つめる、老執事。その瞳は、不思議な色を帯びていた。
「…それでも、この物語を、続けますか?」
「やらせてください。バスチオン…リーダーは、皆の人生を全うさせるために立つ。僕は、その役割を、果たしたい」
頷くバスチオン。指を鳴らすと、システムの輝く扉が現れる。
「確かに、この先には、あなたの望む未来がある。しかし…それをあなた自身の意思で手繰り、選択することは、現実的には不可能です。なぜなら…シミュレーションの結果はあまりにも膨大だからだ」
向かい合う二人の横顔を、システムの冷たい光が、照らす。
「この世界に存在するすべての砂粒よりも、膨大だ。海が一滴の水の粒からできているように、膨大だ。すべてを比較することは出来ない。おそらく、あなたには区別すらできない。ローリー…わかりますか…?」
「…やらせてください。バスチオン」
ローリーは微笑み、扉の前に立つ。その時、バスチオンが少年の左腕を強くつかんだ。振り向くことなく、告げるローリー。
「じい…ありがとう。大好きだよ」
ローリーは腕を振り払うと、システムの輝く扉を通り抜けた。
―人類滅亡まで、残された時間は、あと…4日―