季節は巡る…厳しく辛い戦争の季節が、今過ぎ去ろうとしていた。
少年に与えられた特殊能力、システムの提案する戦術は、時に斬新で予測不能。ローリーはそのシミュレーション結果に半ば恐怖しながらも、作戦を遂行していく。
大砲を使ったインスール帝国の重要拠点、山岳城砦への攻撃からわずか一か月。
帝国軍側は降伏勧告に従って、次々と周辺の砦を放棄していた。
実は、帝国内部で大きな政変が生じており、穏健派がブレイク王国との停戦交渉を開始していたからである。
運命が少年に味方したかのように、待ち望んでいた季節が訪れようとしていた。柔らかな、春の日差しと共に。
領主の少年はじきに十歳を迎えようとしている。
ここはモンテス城の敷地内にある、鐘楼を備えた大礼拝堂。今、高らかに司教の声が響いている。
「二人は一人に勝る。汝、その伴侶倒るるときは、助け起こすべし。また、伴侶とともに喜びを分かち、苦しみを分かち…」
宗教界の最高指導者、ルディンが厳かに婚姻を宣言する。
演壇より離れて、モンテス領の伝統的な茶色い結婚装束に身を包んだ者らの列。皆、首を垂れて、この神聖な儀式に臨んでいた。
入り口にかけて参列者席が用意され、その最前列に領主である少年がちょこんと座っていた。
儀式が終わり、祝福の鐘が高らかに鳴り響く。
澄み切った青空に、飛び立っていく白い鳩たちが映える。
本日、大礼拝堂で婚姻の儀式を終えたカップルたちは5組。
その中に、ローリーの良く知っている2名がいる。
メイドのフリージアと近衛騎士レイザーは今日、正式に結婚したのだった。
レイザーの思いが成就するまでには、長い時間がかかった。
かつて見習いであったレイザーは褒賞騎士となり、ローリーの護衛として身を粉にして働いた。一方のフリージアはローリーに恋心を抱いていたが、そんなレイザーの一途さに胸を打たれ、徐々に感化されていった。
そして戦争終結の予感は、男女の気持ちを和ませ、未来へと導いた。
「おめでとう、フリージア、レイザー」
ローリーが改めて祝福の言葉を送る。
「ローリー様…」
涙ぐむフリージア。ローリーはフリージアの美しさに、目を伏せた。
レイザーがローリーの手を固くとった。
「貴方様のおかげで、私たちはこうして…」
微笑み、頷くローリー。
「陛下、これからも、よろしくお願いいたします。貴方に心よりの忠誠を」
傍らにはサンダーが控えており、華やかな新郎新婦を、うらやましそうに見やって、笑う。
会場にはローリーの計らいで儀仗隊が参列していた。ツバート率いる第一分団である。ローリーはその一糸乱れぬ動きを満足げに見つめながら、騎士には戦場よりも結婚式の方が似合っているな、と思う。
「本日は、おめでとうございます。こうして久しぶりに礼拝堂で婚姻の義を行うことができ、私は嬉しく思います」
ローリーはガーデンパーティーの席で祝辞を述べる。その周囲には主役であるカップルたち、貴族のみならず、周辺の村々から顔役などが集められ、会場は終始、和めいた雰囲気であった。
拍手とともに降壇し、テーブルに着くローリー。
少年が久しぶりに感じる、安らぎ。
昼の宴が始まり、乾杯とともに笑い声で会場は騒めく。
ローリーはテーブルの顔を見回した。
母ヤグリスと、その幼子。そう、おくるみに包まれた赤子をヤグリスは抱いていた。
赤子は、ヤグリスとローリーの異母兄アンドラスの間にできた女児である。去年生まれたばかりだが体重も増え、春を迎えてようやく部屋から外に出せるようになった。
生まれたばかりの赤ちゃんを目にし、ローリーとトレッサの喜びは、はちきれんばかりであった。トレッサはいつもヤグリスについて回り、赤子の世話を手伝いたがった。
ヤグリスは、変わった。
指導者ローリーを補佐する立場にあって、女だからとか、母だからとか、そのような属性はもはや気にならない。
我が子は自立し、自分を愛して見せると、言ってくれた。
ならば自分は、この温かく柔らかな新しい命を、育んでいくだけだ。
「僕は、幸せです」
皆がローリーを見つめる。
「僕の望みが、今日、叶ったんです…家族みんなで、こうやって…同じテーブルで…」
声を詰まらせるローリー。すすり泣きを始める。トレッサとフランシスが慌ててローリーに駆け寄っていった。二人はローリーを挟むように、その身体を抱いて、いつまでも撫でてやった。
パーティーを中座したローリーは、独り諸侯の大きな執務室に戻っていった。
右手を宙に差し出す。そこに光の一文字が生じ、それは下方へと面積を広げると、青白く発光する扉となる。
システムの扉。
ローリーは迷うことなく光り輝く空間に足を踏み入れる。
少年の特別な能力、空間に現出するシステムのディスプレイ。
それは少年の成長と共に進化してきた。平面から、立体へ。立体から、空間へ。システムが記録する情報も、以前のように少年が見聞きした事象だけにとどまらない。
ローリーはこれを自分だけの記憶装置やシミュレーションの道具として用いていたが、今ではシステムの情報を他者と共有する事すら可能になっている。
少年の想像力は、システムという道具の性能を限界まで引き出していたのだった。
輝く扉の向こうでは、巨大な存在がローリーを待ち受けていた。
―小さきものよ…また会いましたね。
優しい呼びかけが、システムの作り出した不思議な空間にこだまする。
ローリーは再び、あの巨大な竜と向き合っていた。
かつて北方山脈の巨大な洞窟に眠っていた、世界創造の時に生じたという青い竜である。
―創造主は、全くの無から、世界を創り、我々を生み出し、あなた方、小さな命も生み出したのです。
―全くの無から、何か意味あるものが生まれる…そんなことが果たして可能だと思いますか?
―可能です。私たち定命のものには計り知れぬ時間が、それを行いました。
ローリーはぼんやりと頷く。
竜の姿は美しく、母のように大きくて、優しい声は安らぎを感じさせる。
―小さきものよ。あなたが生まれる、ずっとずっと前。この世界は、巨大な星同士の衝突により生まれた。
―そして、今でも星同士の衝突は起きている。そのたびに環境は激変し、生命は絶滅と誕生を繰り返している。
―小さきものよ。巨大な星が、迫っています。世界との衝突は、避けがたい。
びくりと身を震わせるローリー。
巨大な竜と少年、その間には世界の誕生と崩壊が映像となって展開されていった。
―かつて、極小微細で単純な要素が、集まり、相互に反応し、多様化しました。無から有が生まれたのです。
―世界は今でも集中、崩壊、離散のサイクルを繰り返している。
―それが、創造の鍵なのです。それが創造主の意志…。
大いなる竜よ!…本当に、私たちの…この世界に、星の衝突が迫っているのですか?これは避けられぬ、運命なのですか?
少年が城ほども大きい竜を見上げる。すると竜はゆっくりと頷くようなしぐさを見せた。
―世界は、冷える。小さな命は、みな、終わる。美しい、小さな命…。
ローリーは、朝遅く目覚めた。
昨日のことを思い出す。システムの作り出した空間で、少年は竜から不気味な物語を聞いた。世界の始まりと、終わりについて…。
深いため息をひとつ。
戦争にまつわる重圧、心の傷が見せた悪夢だろう。気持ちを切り替えなければ。
インスール帝国との停戦交渉がすでに始まり、参謀長であるローリーにとって重要な局面を迎えていた。
素早く着替えて食堂に向かう。
竜の不気味な予言は、すでに頭から離れていた。庭ではヘディオン以下、外交官と護衛の騎士を伴った馬車が、少年を待っている。
しかしローリーは、無意識下で…心の奥で、わかっていた。
竜の言葉の意味を、少年は完全に理解している。
だが世界には何の前兆もなく、人々はただ春の訪れに身をゆだねていた。
―人類滅亡まで、残された時間は、あと…7日―