インスール帝国。
かの国こそ広大なミッドランドにて、西部のブレイク王国と覇権をかけて争いあう、東の強者。
ミッドランドの歴史は、この二つの国家の拮抗といって遜色ない。
ローリーが和平交渉のために発した、インスールの言語で書かれた手紙。
そこには、ブレイクで信仰されていた古き神と、インスールで信仰されている神が、実は起源を同じくするとの歴史学者の解釈が添えられていた。
文化、言語の違いを超えて、信仰による和解を願った、ローリーの発案である。
手紙作成に当たってローリーとユディスは、対立する二つの国が、いかにして歩み寄ることができるかについて、知恵を絞った。
ブレイク王国では近年、会社組織が、様々な島しょ地域に商船や軍船を派遣している。これがインスールの商船や、彼らの支配地域で軍事的衝突を引き起こし、両国は急速に関係が悪化してしまった。
そこで利害ではなく、思想的な歩み寄りを進めるべきである、というのが若き諸侯たちの発想である。
インスールとブレイクの神は、元は同一の存在。だから二つの国は、兄弟の様なものであるのだと。
しかし…この停戦申し出の試みは裏目に出て、若きインスール皇帝ヌヤンカの怒りを買ってしまったのであった。
なぜなら、翻訳の過程で、インスール帝国の起源をたどればブレイク王国に行きつくという、まるで二つの国が主従関係にあるかのような誤った解釈がなされたためである。
この哀しい行き違いを、ローリーたちは知らない。
戦争がどのように始まり、また、どのように終わるのか、その全貌を理解できる人間はいない。
なぜなら国家間武力闘争、その関係者、場所、状況はあまりに多様で複雑だからである。
仮に、戦争の全貌をとらえようとするならば…それは歴史を俯瞰するだけでは足りず数多の人間一人一人を観察することも必要になるだろう。
もし人間を観察する、天使のごとき高次の存在がいるとするならば。それらは、戦争という事象を、どのように捉えるのだろう。その感情にどのような揺らぎが生じるだろう。
人間には、知る由もない。
いや、ただ一人…バスチオンと呼ばれていた、観察者。老執事の姿を取った、世界の観察者。
彼ならばきっと戦争について、好ましからざるもの、という評価を下すに違いない。
彼は、愛する少年、ローリーに、ある不思議な夢を見せたのだから。
今から語られるのは、そんな夢の物語…。
…ローリーは深い眠りに落ちていた。
その身体を、青白い光が包む。システムの光である。
システムはローリーに与えられた力…いや重荷かもしれなかった。
それは本来、バスチオンが与えた、意志の力で操作できる情報ツールである。
だがシステムは少年の想像力によって、本来の能力を超えた力を次々に発揮するようになっていた。
ローリーの姿はいつしか人から、輝く鳥となって、モンテス城を飛び立ち、旋回しながら見下ろしていた。
輝く鳥は羽ばたき、やがて東の空を目指し飛び始める。
夜明けの方角へと。
彼方は憎むべき敵、インスール帝国の領土が広がる乾燥地帯。
土地がやせたインスールでは、十分な収穫が得られない。半ば砂漠と化した、荒廃した大地。それでも巨大な帝国が築かれたのは、大洋に面して様々な国々の交易拠点となっているからである。
鳥となったローリーが、城塞を超え、神殿を超え、王都にたどり着く。
巨大な、石造りの王宮。異国の白い化粧石で飾られた、壮麗な建築物である。
屋上には見事な庭園がある。湧水が敷かれ、草花が美しい情景を作る、帝国が誇る空中庭園である。
この空中庭園にたどり着いたブレイク王国の人間は、未だ一人としていない。
夢の中、鳥となったローリーは、空中庭園にそびえる一本の木に、羽を休めた。
雲のない、静かな晩である。人口の池、その澄み切った水面に青く美しい月が写り込んでいた。
人間の動く気配。池のほとりから、ゆっくりと立ち上がる人物。
女性であった。
帝国の高位の巫女の衣装をまとった、四十代の女性。その名を、ヌエンマという。
彼女は空中庭園で一人、月を見ていたのだ。王族しか立ち入ることの許されぬ、この庭園で。
「誰か…そこにいるのか?鳥か…」
声をかけられる、ローリー。
いつの間にか、鳥から、人間の姿へと戻ってしまっている。慌てて身を隠そうとするが、声をかけられて、目があってしまう。ゆっくり立ち上がる、ローリー。
上品な衣擦れの音と共にヌエンマが、ローリーに近づく。
彼女の瞳が、驚きに見開かれる。だがそれは、ローリーが侵入者だからではなかった。
「…ヌルヤン?」
誰かの名をつぶやく。
「ヌルヤン…ああ、ヌルヤン!最後に私の前に、現れてくれたのか…」
彼女はローリーをヌルヤンと呼ぶと、その頬に触れる。その白く美しい指先が、震える。
ヌルヤンとは、すでに殺害されてこの世を去った、彼女の息子であった。
彼女は、死んだはずの息子と空中庭園で再会した事を、驚いていたのだった。
ローリーもまた、ヌエンマを見つめ返す。他人の様な気がしない。夢うつつで、まるで自分の本当の母と出会ったかの様な気持ちを抱いていた。
「ヌルヤン…やはり、伝承は本当だった…!巫女は死の直前、天上から迎えが来ると」
ヌエンマはローリーを抱きしめようとするが、その腕は青白く輝くローリーの身体を通り抜けてしまい、触れることができない。
「ヌルヤン…本当に…優しい子…お前に、会えるなんて…!」
ヌエンマはその場に跪いた、すすり泣きを始める。
ローリーはうろたえ、ただそこに立ち尽くす。この女性の語る言葉がわかる…自分をヌルヤンという人物と勘違いしている。しかし、それを正す気にはなれない。ローリーはうずくまり泣き始めるヌエンマを、見下ろす。
この女性、ヌエンマは、インスール帝国の巫女である。
インスールは建国時より神託政治を行っており、預言を行う巫女には大きな権力がある。
しかし、インスールの巫女は四十歳を迎えると、儀式によって殺害される習わしである。
自然死を遂げた巫女は天上へと召されて二度と戻らないが、殺害された巫女は現世にて生まれ変わり、再びインスールを導くのだと固く信じられているからである。
だがこの女性、ヌエンマは異例であった。四十歳を過ぎ殺されるはずの彼女は、死を先送りにされ、儀式は延期されてインスールの政治の世界は混乱していた。
ヌエンマの死の儀式を送らせているのは、彼女の産んだ長男である、現インスール皇帝ヌヤンカ。
次男ヌルヤンは政争に負けて殺害されていたが、ローリーはその次男ヌルヤンと間違われていたのだった。
インスールが開戦に踏み切った理由は、様々あるが、父を殺して王権を手にしたヌヤンカは、自らの母を延命するためにわざわざ宣戦布告をし、軍を動かしたのではないか、とも噂されていた。
もちろん、そうした事情をローリーは知らない。そう、ブレイク王国の誰一人として、インスール帝国の権力の中枢で何が起きているのか、把握していないのだから。
ヌエンマは憚らずに声を上げて泣き始めた。ローリーはそんな彼女をいたわろうと、腰をかがめる。
その時、ヌエンマの元に、何者かが駆け寄ってくる。月明かりがその人物の顔を照らす。
ヌエンマと同じように、真っ白な髪と透き通るような肌を持つ美少年であった。ローリーはその少年の顔を見つめる。
僕に、似ている…。
この世界のどこかに、自分とよく似た人物がもう一人いるという。そんな話を、ローリーは聞いたことがある。そんな人物がいるとするなら、きっと、目の前のこの少年が、僕のうつしみに違いない。ローリーは呆然と、目の前の少年を見ていた。
「お母様!?お母様!?どうしたのです!?なぜ、泣いておられるのですか!?」
少年は叫んだ。その声色には、悲嘆が濃くにじんでいる。
「…インスール皇帝が、平静を失ってはならぬ」
立ち上がり、少年を見下ろす、ヌエンマ。
「ヌヤンカ。よく聞きなさい。私は、死の儀式を受ける決意を固めました」
その表情は冷たく、厳粛であった。少年は言葉を失い立ち尽くす。
そして、ローリーも呆然としていた。この、僕にそっくりな少年が、インスール皇帝、ヌヤンカだって!?
「…お母様は、力のある巫女です。この戦争が終わるまで、儀式の遂行は認めません」
幼い皇帝ヌヤンカは、巫女でもある母を見つめて言う。だがヌエンマはゆっくりと首を横に振った。
「ヌヤンカ、定めなのです。私にはもう、神々の声が聞こえない。それに、迎えも来ました」
「なんですって!?」
「伝承の通りです。ここに…見えませんか?天上の使いが」
ヌヤンカ皇帝にはローリーの姿が感知できない。
「馬鹿な!嘘だ…!お母様…嘘でしょう!?神様なんかいない…!そんなのは嘘だ!昔の人が作り上げた…」
「…そうかもしれない。しかし、神々の元に、インスール帝国は興り、栄えた」
ヌエンマは、システムの光を纏ったローリーに近づく。頬に触れようとするが、かなわない。抱きしめようとする。しかし、やはり無駄であった。
ヌエンマは失ってしまったヌルヤンを…いや、ローリーを見つめる。
「あなたが来てくれたから…私は正しい道を歩む勇気を得た」
ヌエンマは微笑んだ。ローリーの瞳に涙のように光の粒が生じて、風に流れて消える。
「見えない!何も見えない!」
ヌヤンカが叫ぶ。
「使いなんてどこにもいない!」
その顔は苦痛に歪んでいた。
「絶対に!…そんなものは…僕が殺してやる!追い払ってやる!お願いです、お母様…助けてください!どうか!行かないで…お母様…お母様」
ヌヤンカは母、ヌエンマにしがみつく。そんな母子の姿を、ローリーは自身に重ね合わせずにはいられなかった。
ヌヤンカの頭を優しく撫でるヌエンマ。その顔に、微笑が浮かぶ。月光に照らされた母の笑みは、美しく、神秘的で…力強くさえあった。
「天上から、ヌルヤンが来たのです。あなたに弟をもう一度、殺すことができますか、ヌヤンカ」
幼い皇帝がゆっくりと顔を上げる。その顔には、形容しがたい感情が張り付いている。
ヌヤンカが皇帝の座に就くに際し、彼は父である先皇帝を殺害させている。さらにそれ以前、インスール帝国は、ヌヤンカとヌルヤンの兄弟それぞれを担ぐ二つの派閥に分かれて政治闘争が始まり、結果として、弟ヌルヤンは殺害されていた。
「私の最期に、これ以上の喜びはない。鷹と鷲のように偉大な、帝国の兄弟に見送られて、巫女としての使命を終えるとは」
「お母様、僕が許しません。皇帝として命じます!戦争が終わるまで、どうか…」
「…ヌヤンカ、愛しています、深く…永遠に。愛しい若鷹よ。これが私にしてあげられる、最後の仕事です」
母ヌエンマに、皇帝ヌヤンカがしがみつく。震えている。幼い皇帝がもはや言葉を発することはなかった。ローリーも思わずヌエンマを抱きしめる。不思議である。ローリーからは、ヌエンマに触れることができるのだ。
夢幻のごとく、揺らめくローリーの身体。それは母の体温を確かに、感じていた。
母が微笑む。
その笑みの、なんと尊いことだろう。
だが不意にローリーの身体から、五感の作用が失われる。
暗闇、真の闇。身体が世界から引きはがされるかのごとき、衝撃。
目覚める。
少年はベッドの上であった。起き上がり、思い起こす。鮮明に。
夢とは思えなかった。システムが眼前に展開されていた。青白い、ゆらめく光のディスプレイに、見たこともない壮麗な宮殿が、月明かりに照らされ浮かび上がっている。
ローリーは確信する。これは夢ではなかったのだと。
僕は、システムの力で、インスール帝国を訪れたんだ。
そして僕は、憎むべき敵、インスールの皇帝に、会ったんだ…。
身体が震える。少年は興奮状態にあった。
暗闇には母、ヌエンマの笑顔が鮮明に映ったままだ。そして子、ヌヤンカの悲痛な叫びが、まだ耳に残っている。
「一刻も早く…戦争なんて、終わらせなければならない…」
ローリーはつぶやく。
月光がその顔を冷たく、照らす。