ゆずりはが、可愛らしい実をつける頃となった。この木は、新しい葉が生じると古い葉が場所を譲るように、落ちてしまう。だから新旧相譲る。親から子へ…人はそんな意味を見出したのだと、ローリーはかつて、母に教わった。
父が使っていた執務室。会議室も兼ね、モンテス城の中でも特に広く豪奢な部屋である。
ローリーはたった一人、大きく重い椅子に腰かけて、母を待っていた。
母であり、モンテス騎士団長である、ヤグリスを。
このところ、ローリーとヤグリスの間に会話はほとんどない。
ローリーは諸侯となったため領内の事物を決定する立場にある。様々な会合に出席しなければならなかった。その一日の大半は馬車での移動。
一方ヤグリスも、大規模な国葬の後はモンテスとグザールそれぞれの騎士団行事を指揮するなどして、その毎日は多忙であったから。
ローリーは母に対して複雑な感情を抱いている。
ローリーが物心つく頃にはすでに、ヤグリスは騎士団長として活躍していた。そのためヤグリスは、ローリーと触れ合うことがほとんどなかった。
だからローリーは教育係のバスチオンを親のように慕い、母恋しさを紛らわせていた。
やがてトレッサが生まれると、ローリーはその年子の妹をとてもかわいがった。
ローリーはトレッサをそのように扱う事で、満たされない自分の気持ちを埋め合わせていたのかもしれない。触れてほしい、抱きしめてほしい…ローリーの無意識にある願望は、トレッサが満たされることで、同じように満たされたのだろうか。
ヤグリスは今でも、心苦しく思っている。ローリーに母親の愛情を与えることができなかったと、後悔しているのだった。
幼いローリーとヤグリスを引き離したのは、どちらかと言えば周囲の人々である。しかし、ヤグリスは騎士団長として評価を得るために懸命に任務にあたってきた。ローリーと触れ合うような場面を、騎士団員には見せられなかったのだ。母だから…つまり、女だから、という枕詞で評価されないように、ヤグリスはモンテス領で必死に足掻いていた。
そんな母子が、久しぶりに二人きりの時間を過ごすことになった。もっともそれは、至極実務的な要件のためであったが。
ノックとともに、ヤグリスが入室してきた。そばには誰も控えていない。
ヤグリスはドレス姿であった。
ローリーは以前、母が美しくあればあるだけ、孤独感を強めていた。母が自分の事など気に留めずに、どこか遠くへ行ってしまうような、そんな気持ちさえ抱いていた。だが、今は…ローリーはヤグリスの美しさを、ありのままに見つめたのだった。ローリー自身にはその理由がわからない。しかし、母と会って、心が落ち着いていくのを感じる。少年は静かな喜びを感じた。
「ローリー。あなたは立派に諸侯の地位を引き継ぎましたね」
ヤグリスが遠慮がちに、微笑んだ。ローリーは、はにかんだ。
「お母さん」
ローリーは黙ってしまう。伝えなければならないことが、沢山あった。
何から言えばいいのか。ローリーの小さな頭に、様々な言葉が浮かぶ。
ローリーはいつも母親に対して、素直になれない自分を悔いていた。いつも考えすぎて、自分の気持ちを素直に言えない事を、後悔していた。
今では少年は、諸侯という重荷を背負っている。それはとてつもなく大きな責任だった。モンテスの誰もが、ローリーの背負う重責を理解している。
だからなのかもしれない。ローリーはかえって、母に対してあれこれ考えることをやめて、心の中身をそのまま口から出してしまう。
「お母さん…僕を抱きしめてくれますか。僕は、お母さんに抱きしめてほしいんです」
ローリーは解放感を覚えたが、やはり恥ずかしかった。拒絶されたら…母を困惑させたら…どうしようと、すぐに後悔と羞恥の念が沸き上がる。
ヤグリスはローリーを見つめていた。そしてゆっくりと息子に近づくと、優しくその背に手を回した。
ヤグリスは、息子が諸侯という重荷を背負っていることに、あらためて気づかされた。
「僕は、お母さんに素直になれなかった。恥ずかしかったのかもしれない。でも、今はお母さんの力を必要としています」
「…ローリー。あなたは、とてもよく頑張っているわ。あなたの労苦、私にはよくわかります」
ヤグリスはローリーの背が伸びていることに気付く。最後に、息子を抱いてあげたのはいつのことだったろう…あの時はまだ、ローリーの頭がお腹にあたっていたのに。ヤグリスは自分の胸にまで届いたローリーの頭を優しくなでる。
「ごめんなさい、ローリー。あなたがこんなに立派に成長したというのに、私は、気付かなかった…」
ヤグリスは違うと思った…そうではない、私が今、ローリーに伝えるべきは、こんな、ありふれた言葉ではない。
母にしか、かけられない言葉であるはずなのだ。
しかし、ヤグリスはこの場にふさわしいと思う言葉を、見つけることが出来なかった。
ごめんなさい、ローリー。ヤグリスは、息子の頭を優しく、撫で続けた。
二人はしばらくそうして、立ち尽くしていた。
ローリーは目を閉じ、微笑む。
僕の母はとても真面目で…不器用とさえいえる人だ。言葉使いだって、そんなに巧みではない。でもお母さんは、いつだって少し離れて、僕を気にかけ助けてくれたんだ。お母さん、ありがとう。
ローリーは、母が自分の気持ちに精一杯、寄り添ってくれていると感じた。
だから、自ら離れる。
母を見上げる。
「お母様、いえ団長。諸侯会議は先制攻撃を決定しました。王国軍が編成され、グザールからインスールに攻撃を仕掛けます」
ヤグリスは頷く。
「僕たちの故郷は、戦場になる可能性があります」
「…そうね、ローリー。あなたが諸侯になったばかりだというのに。マヌーサは、あなたに、大きな試練を…」
「神が与える試練とは…困難ではあれど、人の目を開くために課されるものです」
ローリーの声に迷いはなかった。ヤグリスと触れ合った、ほんのひと時。それがローリーの心に強さを与えたようであった。
「グザールには、おじい様だけではない。私の大切なものが、たくさんあるんです。だから、私はできる限り速やかに、インスールとの問題を解決するつもりです」
ローリーは不意に俯く。やがて、意を決したように、口を開いた。
「お母様、お話があります」
ヤグリスはローリーを見つめる。
「団長を、
ローリーの言葉に、ヤグリスはショックを受ける。
ヤグリスはここで騎士団長として、自分の価値を示してきたからであった。
「…お母さんのお腹に、赤ちゃんがいると聞きました」
ヤグリスはゆっくり、頷く。
「もし、赤ちゃんが元気に生まれたら…トレッサが、とても喜びますね。僕だって、嬉しい」
「ローリー…」
「お母さんが、一生懸命に団長として働いてきた姿を、僕は今まで見てきました。僕はお母さんのことを、誇りに思っていた」
母はきっと、ショックを受けているだろう。ローリーは母をいたわるように、静かに続ける。
「こんなことは、誰にも言えません。でも、僕のお母さんは…世界で一番、すごい人です。僕はいつでも、そう思っている」
「…」
「お母さんは、影から僕を支えてくれた。ずっと…。僕には、ちゃんとわかります」
「…」
「お母さん、お願いです。団長を退いてください。僕や、トレッサのためにも」
ローリーはまっすぐにヤグリスを見つめた。
「アンドラスお兄さまの、ために」
ヤグリスはローリーと目を合わせることが出来なかった。
「私は…あなたを助けてやることができないばかりか、いつのまにか、あなたに支えられていたのね…ローリー」
ローリーは、ヤグリスの手を取る。
「ごめんなさい、ローリー。それなのに…私は、今まで、あなたを愛してあげることを、怠っていた」
ヤグリスは俯いた。
「私は、あなたから…逃げていたのかもしれない…」
その目には涙がこぼれた。
「あなたに寂しい思いをさせたのに、私は何をしてよいのか、わからなかったんです。あなたに、恨まれているのではないかと…」
母はそれ以上、一言も発することが出来なかった。ローリーはそんな母をじっと見つめる。
「お母様…愛は、一方的なものではありません。互いに与えあうものだと思います。お母さんは、十分、僕に愛を注いでくれた。だから今度は、僕の番です」
僕は、あなたを愛して見せる。見ていてください。お母様…。