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第62話 祝祭の夜に

ブレイク王国は、女神マヌーサを信仰の中心に据え、その秩序を維持している。

1月1日。マヌーサが世界を生み出したとされる日は、マヌーサの祝日とされ、国を挙げて祝賀行事が行われる


グザール第一管区にある、慈愛の水がめ教会。その教会が運営する学校では、子どもたちが聖歌を練習している。

マヌーサの世界創造の物語は、聖歌によって伝承されてきた。

それは文字が生まれ、統一されるずっと前から、人々の規範として存在してきたのである。

もちろん、今日においても、聖歌は文字が読めない人々にとって、信仰を伝える重要な手段である。

温かく見守る一人の老人。コモドー。かつて、飛蝶騎士団の副長として戦った男である。

農民出身だが、騎士となり、今は天涯孤独。いくつもの戦いを生き抜いた男は、今は静かに、腰かけて、子どもたちの練習を聴かされていた。

右胸に、その質素な服装には不釣り合いな、蝶をあしらった銀の勲章が輝いている。

それはローリーからコモドーへのプレゼントだった。飛蝶騎士勲章。モンテス騎士団の公式な勲章ではない。しかし、モンテス家に忠誠を誓い、幼いローリーと共に働いたコモドーにとって、その勲章は何よりも素晴らしい、贈物であった。

コモドーの周囲に子どもたちが集まる。老人は座ったまま子どもらに拍手してやる。そして彼は勲章を取り外し、子どもらに見せびらかした。

さあ、今日は何を話してやろうか…やはり、わしがローリー様と共に、北の山ん中で竜の奴をやっつけた話をしてやろう!

子どもたちは目を丸くした。コモドーの話はちょっぴり…いや、かなりの割合で事実を誇張していたものの、子どもにはわかりやすく、皆それを楽しんだ。

1月に入り、グザールは一層冷え込んだ。

温かい息を吹きかけ、手をこすり合わせるアムリータ。

学校は今や子どもたちであふれ、トラブルも頻出していた。言い合う子どもたち、泣き声、怒鳴り声、職員のため息…混沌とする様は、すでにアムリータの手に負えないとも思われる。しかし、彼女はそれで良しとした。生きてさえいれば。

もう、路上で死を待つだけの子どもの姿を見ずに、済むのであれば。そんな子どもたちを一瞥し歩み去る人間の姿を見ずに、済むのであれば。

凍り付く空気が輝きを放つかのよう。

澄み切った夜空にアムリータは、流れ星を認めた。


同じ流れ星を、違う場所で見ていたものがある。

トレッサ公女。厚手のコートを脱ぐと、聖歌隊のいでたちで屋外の舞台に上がっていく。

いつものひょうきんな印象は薄れ、ローリーと瓜二つの、年子の妹は礼儀正しく、聖なる儀式に臨んだ。

モンテスの聖歌隊は、老若男女、様々な歌い手で構成されている。

トレッサが中央、先頭に立った。お辞儀をすると、その小さな体いっぱいに拍手が浴びせられる。

大きく深呼吸。笑顔で、口を開く。

夜空に響く、透き通った声。女神をたたえる聖歌、その先唱を彼女は務めた。

他のものがトレッサの歌声に続く。音程やテンポ、歌のすべてを七歳の少女が導く。

聖歌はすぐに合唱となる。高らかに響く、音のハーモニー。まじりあい、溶け合う声は一つ。そう、聖歌隊の心は一つ。

小さな命は、精一杯に神をたたえる。そして、神の愛した、人間もたたえる。ほむべきかな、この世界よ。

トレッサは信じている。たとえ盲ていても、字が読めずとも、聖歌で今日この夜、誰もが幸せになれると。

少女の輝く笑顔は、皆の心を温かくした。

トレッサは目の前の、ちいさなおにいさま、に微笑みかける。フードですっぽりと顔を隠した、子どものような男。ローリーの異母兄、フランシス。傍らには笑顔のマイアが控えている。

トレッサはもう一人の兄、ローリーを探すようなことはしなかった。

この歌声が、愛してやまぬ兄に、きっと届いていると信じていたから。


アンドラスは遠巻きに聖歌隊の合唱を聞いていた。美しい…空気を震わせ胸に響いてくる、歌声の調和を独り、聴いていた。

謹慎中であるが、アンドラスはこっそりと部屋を抜け出して、城を出た。

目立たないように使い古しの外套を着て、目深に帽子をかぶっている。いつも手元にあった、魔剣カタハルコンは没収されて、腰には何も帯びていない。

誰しも、この男がかつての諸侯候補だとは思うまい。アンドラスはある種、解放感に浸って街に出た。

いたるところで、手作りの焼き菓子が振るまわれ、子どもが群がっている。

酔っ払いたちがわめいている。

「今日はみんなが幸せになる日なんだよ!」

誰かが怒鳴った。笑い声が起きる。

アンドラスも笑った。彼は孤独であった。

自業自得とは思っている。モンテス家の嫡子としての地位にあって、その振る舞いは傍若無人であったから。だが、彼にも遠い昔、友達がいたのだ。

マシス。忘れられない。忘れようとしても、無理だった。かつてアンドラスは内緒で、マシスに城の備品を売るように仕向けた。よってマシスは窃盗の罪で処刑されてしまったのだ。

もしかしたら、あの出来事が、僕を人から遠ざけていたのかもしれない。

トレッサの歌を聴き、少し散歩して、自室としてあてがわれた客間に戻る予定であった。しかし、アンドラスはいつの間にか城壁を越えて街中の夜市までたどり着いてしまった。

道の端に、靴磨きの男がマントにくるまって震えていた。アンドラスは誰でもいいから話したくなり、近づいていくと足置き台を踏む。

「冷えるね、ご苦労様」

靴磨きの男が顔を上げ、愛想笑いを作る。

アンドラスはランプに照らされた男の顔を見ると、驚きに目を見開く。

その男は、アンドラスが幼いころ処刑されたはずの側仕えの少年マシスに、そっくりであった。

「…マシス!?君は、マシスなのか?」

男はぎょっとした顔で、慌てて下を向く。麻袋から取り出したぼろきれで、アンドラスの革靴を拭き始める。

「ねえ、君は、昔…城にいた、マシスじゃないのか?」

男は答えなかった。

アンドラスは思う。マシスは、アンドラスのせいで重窃盗犯として処罰されたのだ。もし、彼がマシス本人であったとしても、どうして僕の前で名乗り出ることができるだろう、と。

「…すまない。人違いだ。昔、君によく似た人と、友達だったんだ」

「…」

「マシスは…僕のただ一人の友達だった。僕のお兄さんみたいな、大切な人だった」

男は獣脂を取り出して布につけると、アンドラスの靴を磨き始める。慣れた手つき。長年、靴磨きをしてきたに違いない。それはモンテスの男たちが行う、最低の仕事の一つだった。

「こんなことを君に言っても、仕方の無い事だ。でも、聞いてくれ。僕は彼にずっと、謝りたかったんだ」

男は手早く仕事を終わらせた。うつむいたまま、言う。

「三百シュケルになります、旦那」

アンドラスは俯く男を、じっと見つめる。

そうか、ファルドンだ…。

ファルドンは本来、死罪に処すべきマシスを、内密に放免したのだ。

だがその事実は誰にも告げられず、ファルドンの中だけにしまっておかれた。なぜなら、ファルドンは律法者でありながら、法を曲げたのだから。少年の命を救うために…。

二人は目を合わせることなく、しばし沈黙していた。アンドラスはポケットから五千シュケルの銀貨を取り出すと、男に手渡す。

「…旦那、これは受け取れません」

「なあ、靴磨き、君に弟はいるのかい?」

「…いましたがね。死にましたよ。二人ともね」

「…そうか。冥福を祈るよ。話し込んですまなかった。お詫びにそれを使ってくれ」

男はうつむいたまま、銀貨をしまう。もはや二度と、アンドラスと目を合わせようとしなかった。

来た道を戻り、歩いていくアンドラス。

なんという偶然だろう。あの靴磨きは、間違いなく、マシスだ。マシス…生きていてくれたのか。

「過去はね、あなたを傷付けたりはしないの、本当はね」

話しかけられて、驚き、振り返るアンドラス。

しかし、勘違いであった。

アンドラスのすぐ後ろで、巡礼らしい母親が、同じくらいの背丈の娘に話しかけているようだ。

「自分を傷付けるのは、もう、やめましょう」

それは親子ではなかったのかもしれない…しかし、その声は、温かかった。

アンドラスは、茫洋と立ち尽くす。

どこからか、聖歌が聴こえてくる。

一体いつ、誰が歌い始めたのか。遠い昔…歌って聞かせたものの、願い。歌い継いできたものの、願い。そして、聞き手の、願い。

願いは果てのない暗い夜空に吸い込まれていく。


降っては積もる、微細な結晶。月の光を受け、煌めく。

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