目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第55話 バスチオンの正体、後編

バスチオンとローリーが、輝くシステムの盤面を見つめている。

システムとは、かつて天地創造の際に天使が用いていた情報処理ツールである。うかつに人間がシステムに触れれば、その人間は狂気に陥る事だろう。

バスチオンは自らの秘密を、ローリーに明かそうとしていた。これは手術のような慎重さを要する、繊細で緻密な作業である。バスチオンはゆっくり、丁寧にローリーに説明を試みる。これは、二人が越えねばならぬ最大の試練といってよかった。


過去…いや、時間の概念など生じてすらいなかった、遥か遠い時空の果て。この空間、宇宙が存在する以前。

虚無は、終わりがないがゆえに、終わりあるものを望んだ。

すると大小さまざまな構成要素が組み合わさって、複雑で美しい構造体が生じた。そう、命が生じたのである。

命は、メッセージだ。終わりなきものが、終わりあるものをどれほど待ち望んでいたのか、どれほど慈しんでいるのか、という。それはひたむきに、懸命に、代謝を繰り返しながら、増殖する。個々の命はとても短いが、その命のリレーは、果てしなく続くとも思われた。

命を生じさせた意思。それは人間の認識に落とし込めば、創造主…神と呼ぶ事が出来るだろう。神は命を生じさせたが、一方で、その行く末については関心を持たなかった。

それゆえに、神の代理人、しもべたる天使たちが、命を、人間を、その文明を、観察し管理してきたのであった。命を生み出した神の恩寵に、応えるために。

巨大なる竜や、海の怪物、大地を震わせる巨人…神話の時代とされる過去においては、多様な命が生じては消えていった。それは世界のありとあらゆる可能性を模索する、壮大な物語を紡いだ。

時は進み、やがて天使たちは、果てしない繰り返しの中で偶然に生じた、人間という小さな命に特に注意を払うようになった。それはどこか、創造主に似ていた。

矮小だが、美しく、複雑。狂暴性が高いが、献身的でもある。現実とは異なる広大な精神世界を有し、それを集団で共有するという、特別な存在であった。

天使たちは人間の物語を特に気に入った。愛、憎しみ、友和、献身、破壊…天使らの予測をはるかに超えた、美しい物語。または、目を覆いたくなるほどの、残酷で醜悪な物語。

しかし、その結末は幾度読み返しても、すべて同じ終わりを迎える。

そう、人間は一人残らず、この地上から姿を消してしまうのだ。神話の時代の巨大な怪物たちが、そうであったように。

天使たちは何度も何度も、物語を再構築した。人間の物語に魅かれ、その可能性を模索した。人間のような美しい命が、自滅していくのは天使たちにとって耐えがたい結果であった。

果てしない試行が繰り返される中、人間の物語に入り込んで、その展開に干渉するという禁を犯した天使が存在した。それこそが、バスチオンと名乗り、老執事の姿を借りて、ローリーの前に現れた高次の存在なのである。

バスチオンは、人間の持つコミュニケーション能力と想像力に特に注目していた。バスチオンはある時、実験的に一人の人間、幼いローリーにシステムへのアクセス権限を一部、譲渡する。

システムという名称に特別な意味はなく、それは、天使たちが用いていた生命の管理を目的とした情報ツールである。それを用いるためには本来、生命体としての一定のサイズが必要である。人間のような小さく短い命には、本来、システムを使うことはできないのだ。だがバスチオンは人間の大きな想像力に賭けた。

そして、ローリーにはシステムの機能の極々一部分のみが与えられた。そのため、ローリーは自我崩壊することなく、システムを使いこなして、人間のリーダーとなるべく物語を紡ぎ始めた。

人間の物語の、新たなる一ページ目が、ここに始まったのだった。

バスチオンがローリーに託したもの。それは、人間の避けられぬ絶滅の未来を、変えるという使命。

禁を犯したバスチオンは、天使たちによってシステム中枢へのアクセス権限をはく奪された。彼はもはや、世界の管理者…天使などではない。いわば堕天使。そう、悪魔といった方が、その実態に近い。バスチオンはもはや、人類の観察者ではない。その力は限られてはいるものの、人間を操作し、時に弄び、自らの傀儡とすることができる。

バスチオンだけは、信じていたのだ。人間の可能性は、絶滅の未来を回避しうる、と。

それは悪魔の思い上がりなのか。堕天使のかけた浅情けか。いずれわかる。そう、ローリーが歩む未来は、この物語で明かされていくのだから。


システムの光が弱くなって薄れ、消えていく。ローリーとバスチオンは未だ、執務室に向かい合って座っていた。

不思議な時間が、いつの間にか過ぎ去っていた。

「いつかは、お伝えしなければならないと思っていました。ぼっちゃまを、裏切り続けるのはとても、心苦しい事ですので」

システムは消失している。しかしローリーは、何もない空間をぼんやりと見つめていた。

「だが、本当の事をお話しするのは、危険なことでもあるのです。ぼっちゃまの心を、壊してしまう恐れが大きかったのです」


不意に、ノックの音が響いた。ローリーとバスチオンは、同時に扉を見やる。メイド長のカマラが入室してきた。

「ローリー様に、数学者様が面会を求めておいでですが、お約束はありましたか?」

「…数学者?」

「官僚の方を交えて、税金の件でご相談があるとか」

「あっ、そうでした。ありがとうございます!これから話し合いをしなければならないんです」

ローリーはバスチオンを顧みる。

「ありがとうございます。バスチオン。リーダーが何をすべきか、少しづつですが、わかった気がします!」

「それはよかった。ローリー様はローリー様らしく、振舞えばそれでよろしいかと」

バスチオンは微笑んだ。部屋を出るローリー。昼前に会議室で話し合いを行うとの約束であった。

何故だか、心が騒ぐ。喜びにワクワクするような、それでいて、暗い空間に落ちていくような不安…何か、とてつもなく大切なことをバスチオンと語らった気がする…しかし、思い出せない。

リーダーの資質…その後…何を語り合ったのだろう。

ローリーの表層から一時的に、バスチオンとの対話の大部分が失われていた。バスチオンは確かに、悪魔なのかもしれない。彼は人の心を自由に操作できる。ファルドン司祭の語った言葉は、一面において真実だったのだ。

急いで会議室の扉を開けると、そこにはすでに収税官僚と、グザール出身の学者が控えており、ローリーは遅れをわびた。

とにかく、じいは僕の頼れる味方だ。大丈夫。今まで通り、皆の力を借りて頑張ればいい。

「ローリー様、いえ、若きモンテス公。どうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそ。どうぞお知恵をお貸しください」

ローリーとグザールの学者は握手を交わした。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?