「お父様!」
返事はない。ローリーが父の私室に入るのは、ほぼ一か月間ぶりであり、モンテス八世はすでに会話が困難なほど衰弱していた。
ベッドには目隠しが引かれており、ローリーはそこに横たわる父の、うすぼんやりした姿を認めた。
「ローリー様、最後のご挨拶を」
医師でもある、メディナ領の諸侯、ユディスに告げられる。ローリーは茫然と父の姿を見つめた。生きているのか、死んでいるのか、判別できない。
「お父様!ご心配なく。私は、諸侯としての責務を果たします」
ローリーははっきりと父に告げた。しかし、やはり父からの返答はなかった。
「お父様は聞いておられますよ。ローリー様」
ユディスは目隠しを避けて、モンテス八世の手を取った。近づき、父の手を取るローリー。
父の手は冷たく、肉が削げ落ちたように細く、ローリーは父の死が避けようのない事実であることを実感する。
「お父様…」
ユディスが再び目隠しを閉じる。脇の机から封筒を取り、ローリーに手渡した。
「ローリー様。お父様からのご遺言です」
頷き、受け取るローリー。その時、覆いの内から、はっきりとした声がした。
「ローリー。報告は受けた。見事…」
駆け寄るローリー。
「お父様!」
目隠しに手を掛けようとするが、ユディスに止められる。父はきっと、衰えた自分をわが子には見せたくないはずである。そんな思いから出た行動であった。
「モンテス領の事は、僕にお任せください!お父様に受けたご恩は、終生、忘れません!」
「ローリー。王道を行け。覇道より、王道こそ、お前にふさわしい」
「お父様!」
「もはや悔いはない。行きなさい、ローリー」
ローリーは部屋を退出した。不思議と涙は出なかった。覚悟していたせいであろう。もう、お父様を頼ることはできない。これからはモンテス領の全ての人間が、僕を頼って生きていくことになるだろう。
「後のことはお任せください」
ユディスがローリーに告げた。頷くローリー。
「ユディス先生、ありがとうございました。父に、手を尽くしてくださって」
「…お父様は、実によい生き方をなされた。これから苦しむこともありません。もうお休みになられるはずです」
「諸侯として、お忙しいのに」
「それはお互い様でしょう」
ユディスは微笑んだ。
「念のためもう一度、左腕の傷を見せてください。私は、明日の馬車で戻ります」
「落ち着いたら、改めて、ご挨拶に伺いたいと思います」
ローリーはユディスと別れ、トレッサを連れて私室に戻った。引っ越しはおおかたすんでいたが、ローリーのベッドは未だそこに置いてあった。
ローリーが一人になれる場所は、もはやこの部屋しか残っていなかったが、ここもじきに引き払うことになる。
ローリーはベッドに仰向けに倒れ込み、父の遺書を読み始める。するとトレッサも真似して、ローリーの横に寝転んだ。トレッサの頭を優しく抱いてやるローリー。
それはモンテス八世の筆によるものであったが、財産の目録など相続についての取り決めを、すでに法律顧問のパルンに託してあるとの簡素な内容であった。父の最期の言葉を思い出すローリー。
「…王道」
どういう意味なのだろう。バスチオンの顔が浮かぶ。バスチオンは謹慎処分という事で、モンテス八世の執務室の一つに閉じこもっているはずだ。
ローリーはバスチオンを訪ねることにする。聞きたいことは山ほどある。
「ねえトレッサ、夕ご飯を、一緒に食べようよ」
「いいわ!」
ローリーはこれ以上、トレッサとの約束を破りたくはなかった。小さな約束を交わして、独り、バスチオンを訪ねる。
「バスチオン、いますか?」
ノックし、扉をそっと開ける。老執事は広い部屋に独り、読書をしていた。執務机には大量の本が積んであった。
「ぼっちゃま」
「やあ。久しぶりだね」
ローリーは扉を閉める。親のようにバスチオンを頼ってきたローリーであったが、久しぶりの再会に少し気恥ずかしさを覚えた。
「もう、じいって呼ぶのは止めようかな。僕は諸侯になってしまったし」
「ではバスチオンとお呼びください。ぼっちゃま」
バスチオンは笑って、本を閉じると立ち上がった。
「お怪我はよろしいので?」
「うん、ステフォンのお医者さんの、腕が良かったみたいだ」
一時期、はれ上がっていたローリーの矢傷は快方に向かい、今では痛みもひいた。
じい…君は、あの時、ファルドン先生に刺されたように見えたんだけど…。ローリーは何故か、バスチオンに尋ねることができない。
「お父様にあった。きっと今は安らかに、眠られている」
バスチオンは頷く。
「じい。王道って、何かな。覇道という言葉と、何が違うのかな」
ローリーは、父の最期の言葉の真意が分からなかった。バスチオンは少し、考えた。
「王道とは、徳をもって人をつなぐ事。覇道とは、威をもって人を制する事、ではないでしょうか」
「…徳をもって、人をつなぐ…僕にできるのかな…」
「それはぼっちゃまが、グザール総督としてやっていた事、そのものではありませんか」
はっとローリーはバスチオンを見つめる。いつもの微笑がそこにあった。
人を、つなぐ。そうかもしれない。僕は、自分の無力を感じていた。だからバスチオンを頼り、騎士団の仲間を頼り、そして、管区の大勢の人を頼っていた。それは恥ずかしいけれど、仕方のない事だった。確かに、僕にはシステムの力がある。だから僕は神童と呼ばれた。でも、システムは万能なんかじゃない。僕ができないことは山ほどあった。でも、いつだって皆が助けてくれた。そういう事なのかな…。
「王道を生きたものと、覇道を生きたもの。私は、どちらのお方も、よく存じ上げているのですよ」
ノックとともに、メイド長のカマラが入室してきた。バスチオンはカマラに、お茶を頼んだ。
「怖いんだ。不安なんだ。僕は、父の代わりをしなきゃいけない。父に、そう約束をしてしまったんだ」
「ええ、そうでしょうとも。ぼっちゃまはそういうお方です。でも、ぼっちゃまならそれが可能だ」
バスチオン、どうか僕を助けてください。ローリーはそんな言葉を飲み込んだ。
バスチオンの傀儡にすぎない…ファルドン司祭に投げかけられた言葉が、重く、心にのしかかる。モンテス城の誰もが、僕をそう思っているに違いない。今この瞬間にあっても。
「もはや私のような年寄りがあれこれ言わずとも、ぼっちゃまなら、一人で充分に、職責を果たされることでしょう」
「だけど…」
「今のままでよい。ローリー様は、何ら変わる必要などございません。今のままで十分でございます」
「そんな」
「では、グザールでのことを思い返されるとよい」
「うん…」
「あなたは、人と人をつないでこられた。素晴らしいことではないですか。ところで、ここ、モンテス領にも多くの人々が存在する」
バスチオンは続けた。
「律法学会、騎士団、官僚、召使…すべての人たちには、居場所がある。それぞれの仕事、地位、役割がすでにあるのです」
「…」
「諸侯などいなくとも、彼らは生きていく。モンテス領は、動き続ける」
バスチオンは微笑んだ。ローリーは戸惑う。諸侯の存在こそが、領地をまとめるのではなかったのか?
「…では、諸侯なんて、ただのお飾りのようなもの…という事でしょうか?」
バスチオンは首を横に振った。
部屋にカマラが入ってきた。お茶を渡されて、礼を言うローリー。温かい。ローリーはバスチオンと話す時間が好きだった。いつの間にか、ローリーは諸侯という重荷を忘れて、知的好奇心あふれる生徒となってバスチオンと語らっていた。
「諸侯に、リーダーに必要な資質とは。皆に希望を与えることです」
「…ええ、そうです」
「では一つ、お金という側面からものを見てみましょう」
バスチオンが微笑む。
「思い出してください。あなたが就任する前の、グザール第一管区を。財政はひっ迫し、借金が多かった。あなたはどうしましたか?」
「どうしましたって…うーん。…でも、結局、お金を借りた気がします」
「ええ、そうでした。ところで、ぼっちゃま。人は何故、お金を貸すと思いますか?」
「それは…もちろん、いつか返ってくるからですよね?」
「その通りです。ただし、貸したお金は必ず返ってくるとは限らない。だから貸し付けは、短期、少額、高利が基本です」
ローリーは首肯する。
「しかし、あなたが総督となってからはどうでしたか?商人や貴族は、あなたにどのような条件で貸し付けを?」
「…逆でした」
ローリーははっと気づく。
「高額でした。返済期日なんて決まっていなかった…お礼の利息もそこまで高くなかった。なぜなんだろう…」
「簡単に申し上げると、貸し付けとは、借りる者が歩む未来に対する期待です。将来には良い結果が出るという期待が、グザールの状況を動かしたのではないでしょうか」
「なるほど、そして、社会の将来に期待を持たせることが、リーダーの責務であると!?」
「その通りでございます」
バスチオンは微笑んだ。
「打てば響く、という言葉がありますが。まさに、ぼっちゃまだ」
「僕は、そんなことをしていたんでしょうか…」
「ええ。あなた様の誠実さ、ひたむきさ、そして、管区の住人を思う気持ち。これが、人々の期待となって、社会を動かしたのです」
そうか、わかってきた気がする。
「じい、ありがとう」
ローリーはバスチオンを見つめる。不思議だ…バスチオンは悪い人なんかじゃない。絶対に。僕を愛してくれている。僕を正しい道に、導いてくれているんだ。なぜ、ファルドン先生は…。
ローリーは不意に、バスチオンをシステムで
微笑むバスチオン。ローリーは罪悪感に苛まれながらも、システムを展開した…。
バスチオン、貴方は、人間だ。きっと、そうに違いない。システムの青白い光が、周囲を包む。