アンドラスの胸中には、羞恥、悔悟、そしてファルドンとの密約が渦を巻いていた。俯いてしまったローリーを、じっと見つめるアンドラス。アンドラスが剣の柄に手をかける。ローリーはポツリと、つぶやいた。
「もう少しだけ、時間をくれませんか。お兄様…」
「…違う。違うんだ!ローリー。聞いてくれ…僕はね」
アンドラスが言いかけた時、ローリーの元に一人の騎士が駆け付けた。緊張は破られた。
「ローリー様!所属不明の軍隊が、迫っています!」
「…どういうことですか!?」
それは
斥候が示す方、進軍方向の左手、平原地帯のほうから騎馬の群れが確認できる。土煙を縦ながら、馬が10列ほどに並んで組み、駆けてくる様子だ。一見して、ブレイク王国の騎兵ではないとローリーにはわかる。
ローリーら遠征隊より、数で優っているように感じる。あれはインスール帝国の偵察部隊であろうか。ローリーは生まれて初めて、捕虜以外の敵国の兵らを目にしたのだった。
騎兵たちはインスールの黒い、独特の形状の鎧を着こんでいる。
「総員、盾を取れ!戦闘配備!密集陣形!」
ローリーは慌てて叫んだ!騎士たちは急いで馬車から装備を取り出す。ローリーはコモドーから盾とラッパを受け取る。サガンに向かっていく。
「サガン殿。あれはインスール兵か?あなたは何を知っている!?隠さず、話していただきます!」
サガンは慌ててローリーから望遠鏡を受け取る。
「馬鹿な!あれは…インスールの…異教徒どもの軍勢だ!」
そう語る審問官の表情は、驚きに満ちていた。
「ローリー。馬を出すんだ。囲まれたら終わりだぞ!?」
アンドラスが馬に乗り込み、告げる。
「部下は君を守るだろう。命を懸けて!さあ、行くんだ。ローリー!」
アンドラスはローリーだけでも先に逃げろと言っているのであろう。だがローリーは答える。
「僕は一人では行きません!僕は遠征隊の長です。この隊の人員、全ての命を預かっている!」
アンドラスは頷いた。
「そうだろうとも。わかってる。君はそういう男さ!」
アンドラスはしばらく目を閉じていた。やがて意を決したように、騎士たちに向かって馬上から声をかける。
「聞け!インスールの兵が目の前に迫っている!戦闘になる!包囲されたらおしまいだ。僕についてこい!手柄を立てたい奴!勇気のある奴!」
アンドラスは剣を抜き放った。
「腰抜けは置いていくぞ。奴らを蹴散らす!モンテス騎士たちよ、ローリーを守れ!未来の諸侯を守れ!」
騎士たちは声をそろえて応じる。盾を背負って、馬に乗り込む。各々槍を受け取ると、即席の遊撃部隊が、アンドラスの元に参集した。
「サガンよ!ローリーを守れ!それとも貴様は、次期諸侯を敵に売り渡す、逆賊となるか!?」
「ぬああっ!言うなっ!言うな!アンドラス!」
激情のままに、馬にまたがるサガン。同様に騎乗したファルドンの盾のメンバーが、サガンの周囲に集まり、武器を天高く掲げる。
「異教徒どもに、マヌーサの信奉者の力、いかほどのものか、見せてやれ!奴らを地の底に、叩き込んでやる!」
サガンの絶叫が響いた。ローリーはアンドラスにかけよる。
「待ってください!お兄様!お気を付けください!なるべくなら、戦闘は避けたいのです!」
「僕もだ、ローリー。だが飛び道具には十分注意しろ!」
その時、インスール兵の不気味な角笛の音が響いてきた。馬のかける音が地面を震わせている。敵はすぐそこである!
もう一度、望遠鏡で敵を確認するローリー。このまま突撃を仕掛けてくるつもりなのだろうか。とても話し合いをする雰囲気ではない。
一体、なぜ、インスール帝国の斥候は、僕たちの動きを察知したんだろう。それともただの偶然?いや、この狙いすましたかのような…不意にローリーの頭にホピンの集落が浮かんで消えた…まさか。
ローリーは雑念を絶って、集中する。さあ、ローリー、今に集中しろ!無意識にシステムを開く。状況を整理するんだ。覚悟を決めろ。戦闘になる!指示を出さなければならない。この討伐隊を動かせるのは、僕だけなんだ。僕が、全員の生死を決めうる立場にある!
ローリーが右手を高く掲げる。ローリーにだけ存在が知覚できる、青白く輝くカラスが空に飛びあがる。カラスはいつの間にか
「お兄様!サガン隊長と共に、左側面から馬で攻撃を仕掛けてください!私たちは正面から飛び道具などで敵を迎撃します!」
「わかった!任せろ!ローリー。僕が奴らを蹴散らしてやる!ばらばらに引き裂いてやる!行くぞ!」
先頭に立ち、駆けだすアンドラス。騎士や、ファルドンの盾のメンバーが追う。
「スタイン!ライノス!ここへ!」
ローリーの元に分団長がやって来て跪く。
「あなた方の軍律違反の事実については、後で審議します。私の命が残っていれば、の話ですけどね」
ローリーの真剣な顔を、微笑がかすめた。
「非戦闘員の馬車を率いて、ステフォン領に向かいなさい!今すぐに!」
ローリーは遠征に随行していた、兄フランシスや、学者の身を案じていた。二名の分団長は驚いて顔を上げる。
「急ぎなさい!敵はすぐそこだ!急ぐんです!」
「はい!了解いたしました!」
すでにローリーの周囲に盾を構えた騎士たちが参集している。その後方、機械仕掛けの大弓や、狩猟用の弓を構えた騎士が控える。
「矢が飛んできます!訓練通りに!慌てないで!馬を馬車の後ろに隠しなさい!」
ローリーの心臓が高鳴り、足が震える。敵はもう目の前だ。
アンドラスたちは正面からぶつかろうとしている。ローリーは兄を信じて祈る事しかできない。
「ローリー様!お祈りして下せえ!わしらを、奮い立たせて下せえ!」
コモドーが叫ぶ。ローリーは精一杯の声で、皆に語り掛けた。
「モンテス騎士団は、マヌーサの加護を受けた、聖なる戦士の集団です。士気旺盛にして、規律厳正。我らに並ぶ戦士は、ミッドランドには存在しない!この地上には、存在しない!」
配下の騎士たちの応じる声が、空気を震わせる。
「我らは強大な竜すら平らげた、モンテスの遠征隊!マヌーサのご加護の元に、恐れるものなど、何もない!」
騎士たちの
「馬が向かってくるぞ!決してぶつかるな!馬の道を開けてやれ!馬を狙え!馬のお尻に、矢を当ててやれ!」
突撃の合図か。インスール兵の角笛の音が、周囲に響いた。アンドラスら遊撃隊は、すでにインスールの騎兵と衝突し、戦闘状態となった。インスールの部隊は、戦うためにやってきたのだ。敵を殺さなければ、こちらが殺される!
「盾を構えろ!」
インスールの騎兵が、土煙を上げながら、ローリーらの部隊に突撃を仕掛けてきた。うなりを上げて槍が突き出される!ローリーらの部隊は騎兵の突撃によって隊列を乱し、散り散りとなる。しかしローリーがラッパを吹くと、一斉に馬に向かって矢が放たれた!
何頭かの馬が地響きとともに倒れる。
気付けばローリーらの部隊に向かって、お返しとばかりに、音もなく矢が放たれている。盾に乾いた音を響かせて、矢がぶつかり、地面に落ちていく。
「隊列を乱すな!馬が来るぞ!落ち着いて矢をつがえろ!」
槍を構えた騎兵が突撃してくる!横向きの味方騎士に向かって、馬が激突し、騎士は跳ね飛ばされて地面に転がった。
「敵を引き付けろ!敵の顔が見える場所まで、引き付けろ!」
ローリーはかつてコモドーに指導された言葉を、大きな声で繰り返す。激しく土煙が立ち上る。
「レイザー!聞こえるか!生きていたら返事をしろ!」
サンダーの叫びが戦場にとどろいた。インスール兵達は、騎兵を突撃させた後、列を組んで矢を放ってきた。騎士たちの構えた円形の盾は、体の
サンダーの元に、騎士見習いのレイザーがやってきた。少年は奇異に思えるほど震えている。
「矢は扱えるのか?レイザー」
レイザーは首を横に振った。
「怖いのか、レイザー。怖いのは当たり前だ!」
サンダーはレイザーを怒鳴りつけた。その頬に平手打ちを喰らわせる。
「どうだ、怖いか!レイザー!」
「怖いです!」
絶叫するレイザー。サンダーは笑った。
「よし!じゃあ後ろについてこい!」
二人は盾を前に突き出しながら前進する。味方の騎兵が、彼らを追い越して突撃していく。サンダーはその後を追った。必死についていく、レイザー。その足は震えてもつれ、うまく走れない。
サンダーが弓を持った敵兵士に斬りかかる。肩を強打され、膝をつく敵兵士。
「盾をもってついてこい!レイザー!手柄を立てるんだ!」
「はい!」
剣を抜くレイザー。想像よりも重い。目の前でよろよろと敵兵が立ち上がろうとしている。
「うわああああああっ!」
レイザーは気合と共に、敵兵の肩に剣を振り下ろした。
「いいぞ!ローリー様をお守りしろ!」
土煙の中を、姿勢を低くして進む飛蝶騎士団の二人の若者。レイザーの盾に矢が突き刺さる衝撃。しかし不思議と、恐怖はなかった。