「僕の好きな季節は、いつもせっかちに去っていくんだ」
窓辺のアンドラスが、言う。
白く微細な結晶は真綿のように、石組みのモンテス城を包んだ。
12月。鍾塔の下、礼拝堂からは神を称える聖歌隊のコーラスが響いてくる。マヌーサの祝祭を控えて城内は慌ただしかったが、表は人の往来も少なく、人々は引き込もるように集まり、暖を取っていた。
ヤグリスの執務室には、特別に暖炉がある。会議室を兼ねているためだ。秋の間、きれいに掃除された暖炉にはすでに薪がくべられ、足元を温めてくれる。
「薪を、もう少し準備しておくべきだったわね」
ヤグリスは暖炉の前のソファでくつろいでいた。
ヤグリスとアンドラス。二人きり。八年ぶりの、再会であった。
「もう、戻らないと思っていたわ。アンドラス。諸侯になる決心がついたとでもいうの?」
振り返るアンドラス。笑顔を浮かべている。
「まさか。戻るつもりはなかったさ。戻れば、君と会わねばならなくなるから」
「あなたは私を、気に入ってくれていると、思っていたのだけれど」
「そうさ。僕は君が好きなんだ」
アンドラスもソファにやってきて、掛けた。二人の視線の先で、薪が小さく音を立てた。
「あの日。訓練場で初めて会ったときから、君を忘れられないんだ」
「ほんの小娘だったわ。今では恥ずかしいの」
「驚いたよ。本当に騎士団長を務めているなんて。今は領外でも、モンテス騎士団は噂になっている」
ヤグリスが、アンドラスに視線を向けてきた。ああ、この目だ…挑むような、それでいてどこか、助けを求めるような、不思議な瞳の色。
アンドラスは、初恋の乙女を、ヤグリスの中に見つけた。
「それももう、潮時ね。私を団長へと祭り上げた勢力は、弱まっている」
「父…いや、モンテス八世の事かい?」
ヤグリスは答えなかった。俯き、自嘲気味に言う。
「女の騎士団長なんて、滑稽に映るでしょう?」
「君は実力でのし上がったんだ。剣技であれ、指揮であれ、僕を上回るはずだ。幸い、僕と君は勝負の機会には恵まれなかったね」
アンドラスは微笑を湛えたまま、過去に思いをはせ、窓を見つめる。薄闇が迫っている。雪はやむ気配が無い。
「フランシスの事、ありがとう」
アンドラスが、ポツリという。ヤグリスは黙って、頷いた。
「エレノア、綺麗になったわね。変わった子なの。私みたいに、騎士になりたいって、言ってきかなかったの」
「僕のようなならず者に、あんなかわいこちゃんを寄こすなんて。君の采配は、大いなる謎だね」
「ベスチノへの旅が危険だという事は知っていたわ。でも、あの子を、古臭いブレイクの慣習で縛りたくなかったの」
「ならば目論見通りさ」
ヤグリスは、アンドラスに微笑んだ。
「あなたになら、預けても大丈夫だって」
アンドラスの口が、ゆがんだ。
「どういう意味?」
「そのままの意味。ねえ、あの子、あなたのことが好きみたい」
「そうかな」
「きっとね」
アンドラスは視線を外す。美しいまつ毛が物憂げに、伏せられた。
「…たしかに僕は、来るもの拒まずの獣みたいな男さ。でも、君にそんな風にされたら、悲しいよ」
「…」
「…知ってるくせに。僕がどれだけ、君を好きか」
ヤグリスは黙っていた。アンドラスと目を合わせることが、できない。
「君を見るたびに、ズキズキ痛むよ。心の傷がね。その傷をつけたのは、あの時の君だ」
「…ごめんなさい、アンドラス」
「謝らないでくれよ。謝るくらいなら、一度でいいから、僕のことが、好きか嫌いか、はっきりさせてくれ」
アンドラスはヤグリスに向き合う。ヤグリスは恐る恐る、アンドラスを見る。
「嫌いと言ってくれていい。それで僕は自由になれる。頼む、ヤグリス!」
ヤグリスは今にも飛びかからんとするアンドラスを見て、恐れを感じる。
決して、アンドラスが恐ろしい訳ではない。女性とはいえ、騎士として鍛え上げられたヤグリスを徒手で組み伏せられるような男など、モンテスには僅かしかいない。
だが筋力などよりも、ずっと抗いがたい力が、アンドラスから発せられていたのだ。
信仰から、二夫にまみえることは許されない。何より、夫、モンテス八世は存命なのだ。アンドラスの思いを受け入れることは、不貞を働く結果となる。
しかし…アンドラスを拒めば、彼はおそらく、城を去っていくだろう。モンテスとアンドラスを結び付けているのは、この私なのだ。うぬぼれているわけではない。事実、アンドラスはヤグリスを忘れるために、ベスチノへと旅立っていったのだから。
ヤグリスは心のどこかで計算を始めていた。アンドラスが去れば、それはローリーの後ろ盾が失われる、という事なのだ。モンテス八世が面会謝絶状態となった今、ローリーの有力な味方として、アンドラスを引き込む必要があった。
たとえ破戒卿であっても、諸侯の長子。その事実は変わらない。
彼女は哀れっぽい表情と声を作って、アンドラスに告げた。
「私には言えないわ…貴方は大切な人だから」
それを聞いたアンドラスの顔に、残酷な笑みが広がっていった。ヤグリスはすぐに気づかされた。自分の演技は、計算は、この一瞬で全て読まれてしまったのだと。
「そうさ。僕はローリーぼうやを助けてやることができる。君の返答次第だ。ヤグリス」
アンドラスはまるで、ひび割れから侵入する水のように、ヤグリスの心に入り込んでいく。獣じみた嗅覚だった。
「君に愛してもらえるならば、僕は手段を選ばない」
二人はまともに見つめあった。ヤグリスの鼓動が早まる。
アンドラスは本気なのだ、ずっと前から…あの時から、本気で、私を…。
アンドラスが、恐る恐る、ヤグリスの肩に手をかける。ヤグリスは思わず、目を伏せた。
「僕を見ろよ、ヤグリス。あの瞳で僕を射抜いて見せろ」
ヤグリスはアンドラスを見返すことができない。観念したように、力を抜く。
獣は、私の方だ…。権力に媚び、尻尾を振る、獣。アンドラスを見て、微笑むヤグリス。
「私はもう、あなたの恋した乙女などではない」
アンドラスは、望みのものがついに手に入ったことを知る。優しく囁く。
「知っているよ。ヤグリス。そんなことは。でも…」
ヤグリスはもはや身を任せ、されるがままとなった。
「僕には今しかないんだ。だから今の君が、僕の全てさ」
押し殺していた気持ちが、あふれ出す。止められない。後戻りできない、二匹の獣…。