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第39話 戻る、力

モンテス八世の名を聞いただけで、震え上がってしまうものは少なくない。かつて、自発的秩序の状態にあった広大なモンテス領をまとめ上げ、権力の一極集中状態を作り上げた辣腕らつわん政治家。買収、情報統制、威迫、暴力…征服者である彼の辞書に、禁じ手という項目はなかった。

そんな暴君の歩みを止めたもの。それは何人も逃れえぬもの。加齢、体力の衰え、病…そう、死神である。

面会謝絶となった彼の私室にて、ローリーの父、モンテス八世は巨大なベッドの天蓋をじっと見つめ、考え込んでいた。

ローリーに、騎士失格との疑義が生じた際、少年はグザール領へと送り込まれた。

並みならぬモンテスの血は、グザール領でも鋭い実力を発揮する。不安定であった第一管区の統治状況は、貴族が後任人事を争うほどに好転したという。

そしてよもや、法律の素人同然であったローリーが、王国追及者の訴えを退けるとは…。

領内の耳目を集めたバスチオン裁判で、ローリーはひときわその存在を印象付けた。一方の諸侯たる己は、こうして肺の病に侵され、力なく横たわっている。

運命のめぐりあわせというほかなかった。今を置いて、ローリーに諸侯の座を譲る好機はない。

控えめなノックの音がする。モンテス八世は上体を起こして、ベッドの天蓋から降りる目隠し布を広げた。

「殿下、ご尊顔に拝し…」

「よいよい、そんなものは。ローリーは来たのか?私に近づけるな」

主治医は低頭すると、扉の外から、少年を招き入れた。ローリーである。

「お父さん!」

「ローリー、口をきくな。よいな。肺の病なのだ」

モンテス八世は口をハンカチで覆う。

「お前の顔を、もっと近くで見たかった。語り合いたかった。しかし、もういい。お前の名はモンテス領すべてに、轟いているのだからな」

「…陛下」

「布告を発した。これからお前は神童でなく、モンテスの若き諸侯と呼ばれることになる」

父と息子、お互いにその表情はわからない。しかし、ローリーにはわかった。父は微笑んでいると。

「お前の政治手腕は充分に示された。だが、諸侯はその武勇も同時に示さねばならん」

ローリーは頷く。目隠しで覆われているが、父にも、息子の姿がはっきりと見えていた。

「お前は大地の裂け目に征く。そこで、竜討伐のための調査に向かえ」

竜討伐!?まるで異国の伝承か、おとぎ話である。父は何らかの比喩を語っているのであろうか?

「詳しくは、バスチオンから聞くのだ。よいな。ローリー、下がりなさい」

ローリーは頭を下げるが、退室しようとしない。

「下がれ、ローリー。お前は私の誇りだ。さあ、行きなさい」


諸侯である父の下を辞すると、ローリーは私室のベッドに腰かけて、ぼんやりと窓から外を眺めていた。

影の冒険団のリーダー、ジェンスに敗れ、命を落としかけたあの日。あの日以来、ずっと使ってきたシステムの力は、失われたままである。

異母兄、アンドラスの出現は、ローリーにとって希望そのものであった。それは命の恩人だから、という事実以上の意味を持っていた。

最早、力を失ってしまったローリーの代わりに、これからは兄が、モンテスの後継ぎとして頑張ってくれるだろう。そんな希望を、ローリーは抱いたのであった。

しかし…父は兄ではなく、この僕が、諸侯となる望みを持っている。父は肺病におかされ、再起の見込みは薄い。最後の望みだろう。かなえたい、でも…。

ローリーは靴を脱いで、ベッドに仰向けになる。投げ出すには、何もかもが遅かった。モンテス城内はすでに父の意志で動き始めている。

人間は、自分一人で生きているわけではない。自分だけのために、生きているわけではない。誰かのために、自分を愛してくれる誰かのために、生きていく。それが喜びなんだ、きっと。

「そんなことは、わかってるよ…」

ローリーは目を閉じる。


不意にコツコツと、戸を叩く音。聞こえないふりをする。コツコツ…戸ではない。窓から聞こえる!起き上がるローリー。

窓の外、石組みの縁に、一羽のカラスがとまり、窓枠をコツコツと叩いている。カラスは確かに、賢い。しかし、通信に用いる鳥は主に、鳩である。不思議に思い、窓を開けるローリー。するとカラスが部屋の中に入って、飛び回ってしまう。慌てるローリー。

その時、不思議なことが起こった。カラスは、青白い光を発しながら、床に降り立ちネズミへと姿形を変える。ネズミはなおも、ぼんやりとした青白い光を放っている。魔法!?いや、疲れからくる幻覚!?

そうではない。そう、ローリーはわかっていた。心の奥底で。…システム。間違いない、システムの力だ!

呆然と立ち尽くすローリーに、ネズミが飛びつく。素早く少年の身体を駆け上がり、ちょこんと肩に乗った。一瞬の輝きとともに、ネズミは青白く発光する一文字となり…少年の眼前に慣れ親しんだ、光のディスプレイが現出した。

「戻ったのか…君には意思があるのか?」

ローリーは茫然と、画面を見つめた。そこにはバスチオンが映っている。城内を歩いている。ローリーの部屋にやってくる。

断っておくが、システムは万能の力ではない。ローリーが体験したこと、見聞きしたことだけが、その内部に収められるはずだ。こんな風に、ローリーの知らない情景が、眼前に再現されたことは今まで、一度たりともなかった。

ローリーの心に、じわじわと恐怖が広がっていく。もういい…消えろ。心で念じる。光を放つ画面が、跡形もなく消失する。

言いようのない、恐怖。そう、かつてシステムはローリーを助けた。それは素晴らしい記憶装置であり、ローリーが神童ともてはやされる理由の大部分であった。しかし、それを失ってみて、生まれて初めてシステムのない生活を送って、わかったことがある。

解放感。自由。言いえない、自分を縛る重い鎖が、無くなったような、感覚。ローリーは物心ついてから初めて、神童という重圧から逃れることができたのだ。

しかし、システムの力は戻ってきてしまった。そればかりか、以前より強力になったかのようだ。これで僕は神童に戻った…。ローリーの心をどんよりとした不安が覆う。

ノックの音。思索がさえぎられる。今度こそ、扉から。バスチオンだ。見ずともわかる。

「じい!」

「ぼっちゃま」

バスチオンは、一枚の羊皮紙を携えている。その形式は、主に諸侯の布告など重要文書に用いられる。

「ぼっちゃまに竜の捜索命令が下されております」

「竜…。聞いているよ。でも、竜というのは河川や、噴火、地震の喩えではないのかい?」

バスチオンは頷いた。

「ええ、大部分は。しかし、竜と呼ばれる巨大な怪物は、実は存在するのです。統治者はその実態を隠してきた」

ローリーは驚いた。図書館で好きだった、異国の竜の図録。あの巨大な怪物が、実在している!?バスチオンの言葉ではあるが、信じがたい。

「しかし、総督事務所をずっと空けてしまっている」

バスチオンは頷く。ローリーは裁判後、襲撃を受け、モンテス城へと護送された。自分が放り出してしまった、総督事務所のことが気がかりだった。

「その件ですが、ヤグリス様が、グザールにお戻りになられます。ローリー様も随行ずいこうせよとの、騎士団長の命令です」

「母さんが…わかった」

「準備はお任せを。もう一つ、メーヤー殿の、ご家族に」

「…うん」

「万事、おこたりなく済んでございます。ご安心ください。さあ、お昼にいたしましょう」

ローリーは微笑むバスチオンにしがみつき、その腹部に顔をうずめた。

「じい、ありがとう。大好きだよ」

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