バスチオンを裁判で葬り去る、という彼の目論見は失敗に終わった。最も優秀で、称賛に値する、愛弟子、ローリーによって。
モンテス領に冬が忍び寄っていた。温かな室内、その窓から、ファルドン司祭は葉を落とした木々の列を見つめていた。
遂にファルドンはローリーの殺害を命じた。やむを得ない事であった。ローリーのような素晴らしい人間を、殺さねばならない、という決断は彼の心にも傷を残した。
しかし、モンテス領を守るため、それは仕方のない決断だったのだ。
思わず目をつむり、首を横に振る。ファルドンよ。お前は諸侯の権力欲しさに、ローリーを狙ったのではないか?心の中の悪魔が囁く。
違う…断じて、違う!私にはすでに私心はない。私にあるのは、必死に、モンテスという巨大な権力集団の
書棚に足を運び、隠してある自己の日記を取り出す。すでに変色しているページをめくっていく。途中、日記と無関係に、木炭筆の殴り書きが見つかる。
―バスチオンは人間ではない。騙されるな
自己の筆跡。しかし、思い出せない。いつ、記したのか。誰が記したのか。じっと見る。間違いない。自己の筆跡。
私は気が狂ったのであろうか?足元が崩れ、闇の深い穴に落ち込むような心情。誰かが私の心を、弄んでいる…?
「バスチオンは…人間ではない…?」
ファルドンは独り、つぶやく。
バスチオン。それはファルドンが長く使っていた、偽名である。
モンテス八世から指示を受け、政敵を何人も
この偽名が、気付くと独り歩きしていた。いや、全くの偶然なのかもしれない。実際にバスチオンという男と出会ったのだ。
老執事、バスチオン。モンテス八世からの信頼篤い律法学者であり、ファルドンも彼と何度も議論を交わした記憶がある。
そう、バスチオンはずっと前から、モンテス城に存在していたのだ。これは疑いようのない、事実…だったはずだ。
しかしファルドンは、彼しか知らない日記に、不可解な記述を見つけてしまったのだ。
ファルドンが教育係を任されたアンドラスは、破戒卿という不名誉を被り、一方で、バスチオンが手懐けたローリーは、モンテスの神童とさえ呼ばれ、次期諸侯候補と目されている。
嫉妬。認めないわけにはいかない。これは嫉妬である。しかし、仮にバスチオンという男が、人間ではなく、人々の心に入り込み、権力を広げている悪魔であるとしたら…?
この空想はしだいに大きくなり、ファルドンに使命感となってのしかかった。
モンテス、確かに不信心で、馬鹿げた貴族の集まりだ、しかし、守らねばならない。愚劣な貴族共をでなく、この秩序を。領民のために。マヌーサの選民のために。
「奴は人間ではない…!」
ファルドンの優し気な小さい瞳が、ギラギラと輝いている。それは使命感に燃え、戦いに赴く征服者の目つきである。
その時ノックとともに、大柄な人物が数名の部下を引き連れ、入室した。ファルドン直属の上位審問官、サガンとその部下である。
「
ファルドンの倍ほどある、大柄なサガン。審問官はその職務上、顔を白いマスクで覆っているが、彼は常に素顔で行動している。
浅黒い肌に、禿げた頭頂部、左右に白い頭髪が残っている、筋肉質の巨漢である。肉体的な全盛期は過ぎているが、鍛え上げられた体躯。何より、その猛禽のような鋭い目は、対峙するものを震え上がらせる。
モンテスの聖職者集団は、当然であるが軍事的実行力を持たない。しかし、ファルドンは律法者として法的根拠を作り上げ、彼直属の武装集団を編成した。モンテス宗教警備隊。通称、ファルドンの盾。モンテス騎士団から引き抜きや、独自のルートを通じてスカウトするなど、隊員を多数確保していた。
「ご苦労様です。いつでも通しなさい。サガン、すまないが、会談中は人を通さないように」
「お命じの通りに!」
教会式に敬礼するサガン。
まもなく、アンドラスが一人、入室する。
「おやおや、これは驚いた。サガン。
アンドラスは隊長を認めて、笑みを浮かべた。サガンが無言で睨み返す。
「いい目だ。お前はやはり、引退するにはまだ早い」
「剣をおけ、アンドラス。ここはファルドン猊下の私室である!」
おどけて肩をすくめるアンドラス。ファルドンがとりなす。
「まあ、よいでしょう。私とアンドラス様の仲ですから。サガン、頼みましたよ」
一礼し、退室していく隊員たち。部屋にはアンドラスとファルドンだけが残された。
「物々しい。クーデターでも起こすつもりか?ファルドン」
「ふっ、口を慎め。全く、変わりませんな。貴方のそういうところは」
ファルドンはテーブルに置かれたワインを手にする。
「やりますか?」
「いや、いい。水はあるかい?」
ファルドンは二人分の水を汲み、テーブルに置いた。
「アンドラス様。なぜ、ローリー様を助けた?」
静かに語り掛ける。手を組んで、アンドラスにじっと視線を送るファルドン。
「お前の本当の狙いは、バスチオンなんだろう?」
「アンドラス。君は単純な計算もできないのか?ローリーは諸侯候補だ。生きていては、君の諸侯への道にとって大きな障害になる。違うか?」
「その通り。あの小僧は、いずれ僕の手で始末をつける」
アンドラスは爽やかな笑みを浮かべ、水を飲み干した。
「だが、性急にすぎないか?ファルドン。猫でさえ、ネズミをやっちまう前に、しばらく手の中で遊ばせるんだぞ」
「油断するな。アンドラス。ローリーは神童と呼ばれているが、これは世辞ではない。彼は…化け物じみている」
ファルドンは水を飲み干した。椅子に深くもたれる。
「そしてそれを操っているのが、バスチオンだ。そして、バスチオンは…人間ではない」
目を丸くするアンドラス。笑った。
「おいおい、ファルドン。バスチオンじいさんを一番よく知っているのは、お前じゃないか」
ファルドンは頷く。
「喧嘩でもしたのか?僕が間に入ってやろうか?」
ファルドンの心に残っていた、淡い希望が消えていく。ファルドンは笑みを作った。
「いや、私は彼に嫉妬しているのだ。彼の律法者、政治家…教育者としての手腕に」
アンドラスの顔から笑みが消える。
「お前のような狡猾な男が、そんな下らぬ理由で命を狙うとは、考えにくいが」
「…恐れているのだ、アンドラス。バスチオン…奴には毒が効かない。そういう体質なのかもしれないが…奴には性欲などの生理的欲求もないのだ」
ファルドンはいつしか、自分自身に言葉を放っていた。
「奴のしぐさ、言葉、表情、それは命からくるものではなく…なにか、その…それらしい真似事のような…違和感がある」
二人は黙り込んでしまった。アンドラスはファルドンを素早く分析した。その職責からくるストレスは、ファルドンの精神をゆっくり
ファルドンはモンテス八世の影だったのだ。ほとんどの汚れ仕事を、彼がやってのけたと言っていい。歳を重ねた今ならわかる。
アンドラスは、うつむくファルドンを見つめていた。僕がもっと、周囲の期待に応えられるような…そう、ローリーのような男だったら、ファルドンも苦しまずに済んだのかもしれない。だが、もう遅い。すべてが遅すぎる。僕は行く先々で不和を巻き起こしてきた。呪われたモンテスの、血、ゆえに。
ねえ、ファルドン…僕と一緒に、地獄に落ちるかい?
ファルドンが顔を上げると、そこにアンドラスの無邪気な笑顔があった。
「忘れるな。ファルドン。権力は君に。財産は僕に。だろう?」
ファルドンはしばらく、ぼんやりとアンドラスを見つめていた。やがてその顔に微笑が戻った。
「その通り。
「もう一つ」
「なんでしょう」
「もうこれ以上、ローリーに手を出すな。あいつは僕の獲物だからな」
ファルドンは頷く。その瞳が輝く。征服者の輝き。