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第38話 密約

バスチオンを裁判で葬り去る、という彼の目論見は失敗に終わった。最も優秀で、称賛に値する、愛弟子、ローリーによって。

モンテス領に冬が忍び寄っていた。温かな室内、その窓から、ファルドン司祭は葉を落とした木々の列を見つめていた。

遂にファルドンはローリーの殺害を命じた。やむを得ない事であった。ローリーのような素晴らしい人間を、殺さねばならない、という決断は彼の心にも傷を残した。

しかし、モンテス領を守るため、それは仕方のない決断だったのだ。

思わず目をつむり、首を横に振る。ファルドンよ。お前は諸侯の権力欲しさに、ローリーを狙ったのではないか?心の中の悪魔が囁く。

違う…断じて、違う!私にはすでに私心はない。私にあるのは、必死に、モンテスという巨大な権力集団のほころびを取りつくろおうと奔走ほんそうした、過去のみ…。

書棚に足を運び、隠してある自己の日記を取り出す。すでに変色しているページをめくっていく。途中、日記と無関係に、木炭筆の殴り書きが見つかる。


―バスチオンは人間ではない。騙されるな


自己の筆跡。しかし、思い出せない。いつ、記したのか。誰が記したのか。じっと見る。間違いない。自己の筆跡。

私は気が狂ったのであろうか?足元が崩れ、闇の深い穴に落ち込むような心情。誰かが私の心を、弄んでいる…?

「バスチオンは…人間ではない…?」

ファルドンは独り、つぶやく。

バスチオン。それはファルドンが長く使っていた、偽名である。

モンテス八世から指示を受け、政敵を何人もおとしいれてきた。マヌーサの教えに反した行いを、ファルドンは幾度となく働いた。ファルドンは様々な犯罪行為や、時に善行を、バスチオンという名で行ってきた。

この偽名が、気付くと独り歩きしていた。いや、全くの偶然なのかもしれない。実際にバスチオンという男と出会ったのだ。

老執事、バスチオン。モンテス八世からの信頼篤い律法学者であり、ファルドンも彼と何度も議論を交わした記憶がある。

そう、バスチオンはずっと前から、モンテス城に存在していたのだ。これは疑いようのない、事実…だったはずだ。

しかしファルドンは、彼しか知らない日記に、不可解な記述を見つけてしまったのだ。


ファルドンが教育係を任されたアンドラスは、破戒卿という不名誉を被り、一方で、バスチオンが手懐けたローリーは、モンテスの神童とさえ呼ばれ、次期諸侯候補と目されている。

嫉妬。認めないわけにはいかない。これは嫉妬である。しかし、仮にバスチオンという男が、人間ではなく、人々の心に入り込み、権力を広げている悪魔であるとしたら…?

この空想はしだいに大きくなり、ファルドンに使命感となってのしかかった。

モンテス、確かに不信心で、馬鹿げた貴族の集まりだ、しかし、守らねばならない。愚劣な貴族共をでなく、この秩序を。領民のために。マヌーサの選民のために。

「奴は人間ではない…!」

ファルドンの優し気な小さい瞳が、ギラギラと輝いている。それは使命感に燃え、戦いに赴く征服者の目つきである。

その時ノックとともに、大柄な人物が数名の部下を引き連れ、入室した。ファルドン直属の上位審問官、サガンとその部下である。

猊下げいか。お命じの通りに。アンドラスを待たせております。いかがいたしましょうか?」

ファルドンの倍ほどある、大柄なサガン。審問官はその職務上、顔を白いマスクで覆っているが、彼は常に素顔で行動している。

浅黒い肌に、禿げた頭頂部、左右に白い頭髪が残っている、筋肉質の巨漢である。肉体的な全盛期は過ぎているが、鍛え上げられた体躯。何より、その猛禽のような鋭い目は、対峙するものを震え上がらせる。

モンテスの聖職者集団は、当然であるが軍事的実行力を持たない。しかし、ファルドンは律法者として法的根拠を作り上げ、彼直属の武装集団を編成した。モンテス宗教警備隊。通称、ファルドンの盾。モンテス騎士団から引き抜きや、独自のルートを通じてスカウトするなど、隊員を多数確保していた。

「ご苦労様です。いつでも通しなさい。サガン、すまないが、会談中は人を通さないように」

「お命じの通りに!」

教会式に敬礼するサガン。

まもなく、アンドラスが一人、入室する。

「おやおや、これは驚いた。サガン。宗旨替しゅうしがえしたか?」

アンドラスは隊長を認めて、笑みを浮かべた。サガンが無言で睨み返す。

「いい目だ。お前はやはり、引退するにはまだ早い」

「剣をおけ、アンドラス。ここはファルドン猊下の私室である!」

おどけて肩をすくめるアンドラス。ファルドンがとりなす。

「まあ、よいでしょう。私とアンドラス様の仲ですから。サガン、頼みましたよ」

一礼し、退室していく隊員たち。部屋にはアンドラスとファルドンだけが残された。

「物々しい。クーデターでも起こすつもりか?ファルドン」

「ふっ、口を慎め。全く、変わりませんな。貴方のそういうところは」

ファルドンはテーブルに置かれたワインを手にする。

「やりますか?」

「いや、いい。水はあるかい?」

ファルドンは二人分の水を汲み、テーブルに置いた。

「アンドラス様。なぜ、ローリー様を助けた?」

静かに語り掛ける。手を組んで、アンドラスにじっと視線を送るファルドン。

「お前の本当の狙いは、バスチオンなんだろう?」

「アンドラス。君は単純な計算もできないのか?ローリーは諸侯候補だ。生きていては、君の諸侯への道にとって大きな障害になる。違うか?」

「その通り。あの小僧は、いずれ僕の手で始末をつける」

アンドラスは爽やかな笑みを浮かべ、水を飲み干した。

「だが、性急にすぎないか?ファルドン。猫でさえ、ネズミをやっちまう前に、しばらく手の中で遊ばせるんだぞ」

「油断するな。アンドラス。ローリーは神童と呼ばれているが、これは世辞ではない。彼は…化け物じみている」

ファルドンは水を飲み干した。椅子に深くもたれる。

「そしてそれを操っているのが、バスチオンだ。そして、バスチオンは…人間ではない」

目を丸くするアンドラス。笑った。

「おいおい、ファルドン。バスチオンじいさんを一番よく知っているのは、お前じゃないか」

ファルドンは頷く。

「喧嘩でもしたのか?僕が間に入ってやろうか?」

ファルドンの心に残っていた、淡い希望が消えていく。ファルドンは笑みを作った。

「いや、私は彼に嫉妬しているのだ。彼の律法者、政治家…教育者としての手腕に」

アンドラスの顔から笑みが消える。

「お前のような狡猾な男が、そんな下らぬ理由で命を狙うとは、考えにくいが」

「…恐れているのだ、アンドラス。バスチオン…奴には毒が効かない。そういう体質なのかもしれないが…奴には性欲などの生理的欲求もないのだ」

ファルドンはいつしか、自分自身に言葉を放っていた。

「奴のしぐさ、言葉、表情、それは命からくるものではなく…なにか、その…それらしい真似事のような…違和感がある」

二人は黙り込んでしまった。アンドラスはファルドンを素早く分析した。その職責からくるストレスは、ファルドンの精神をゆっくりむしばんでいる。彼はまじめな男だった。モンテス八世は批判など跳ね返し、征服にまい進する男だが、彼は違う。信心深く、その心の奥は本来、ローリーのように、純粋なのかもしれない。

ファルドンはモンテス八世の影だったのだ。ほとんどの汚れ仕事を、彼がやってのけたと言っていい。歳を重ねた今ならわかる。

アンドラスは、うつむくファルドンを見つめていた。僕がもっと、周囲の期待に応えられるような…そう、ローリーのような男だったら、ファルドンも苦しまずに済んだのかもしれない。だが、もう遅い。すべてが遅すぎる。僕は行く先々で不和を巻き起こしてきた。呪われたモンテスの、血、ゆえに。

ねえ、ファルドン…僕と一緒に、地獄に落ちるかい?

ファルドンが顔を上げると、そこにアンドラスの無邪気な笑顔があった。

「忘れるな。ファルドン。権力は君に。財産は僕に。だろう?」

ファルドンはしばらく、ぼんやりとアンドラスを見つめていた。やがてその顔に微笑が戻った。

「その通り。努々ゆめゆめ、お忘れにならぬよう」

「もう一つ」

「なんでしょう」

「もうこれ以上、ローリーに手を出すな。あいつは僕の獲物だからな」

ファルドンは頷く。その瞳が輝く。征服者の輝き。


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