アンドラスとネーナ。秘密の
半ば家出のような形で、アンドラスはモンテス家が実効支配する、ベスチノ諸島に向かう事となった。モンテス八世は事後承諾のような形で、アンドラスを総督に命じる。ベスチノ諸島では、すでに小規模ながら海上交易が興っており、香辛料や希少金属を狙ってインスール帝国との激しい戦闘が繰り広げられていた。諸侯候補が危険な植民地の総督を務めるなど前代未聞であったが、アンドラスも破戒卿と呼ばれた型破りな男である。この人事はある種奇妙な納得感を伴って、スムーズに進んだ。
一体、いつどこで人脈を築いたのか?アンドラスの放蕩な生活ぶりを知る人々は
船乗りの集会所にて、アンドラスは金山羊号の船長と出会ったのだった。
「驚いた。アンドラス様はおいくつになられますか?モンテス家の血筋は、やはり常人とは違うようだ」
髪を短く刈り上げた体格の良い男は、ハッススと名乗った。ベスチノの総督、と聞いていたので、少なくとも二十歳は超えているであろうと想像していたのだ。
「今年で十七歳になります。よろしく、船長」
集会所の窓からは、並んで停泊している大型の帆船が多数確認できる。
「しかし、驚きだ。あんな大きく、頑丈なものが、水の上に浮かんでいるだなんて」
「アンドラス様は、船を見るのは初めてでいらっしゃる?」
「まあ、ええ」
ハッススは意味深な笑みを浮かべた。
「では、今のうちに陸の上を
二人の間に、若い日焼けした男が現れた。
「航海士のマッサンです。甲板長は…どこかで飲んでいるのでしょう。よろしく」
二人は握手を交わす。
「アンドラス様。それよりも、気になる事が」
「なんです?」
「護衛はいらっしゃらないのですか?オーナーは護衛を手配してはいませんぞ」
ベスチノへの航路は、貿易船を狙う海賊が出るというので恐れられている。
「その件については…確認します」
「もう一点。外海ではこの時期、雲が多く出るので出航は慎重に行うべきです。金山羊号には海神の加護がありますが、危険はできうる限り、避けるべきだ」
「出航の予定は?」
「少なくとも、二日後」
「なるほど…」
「宿はとってありますか?」
「いいえ、全く」
「アンドラス様は、まさか、お一人でこの港町に?」
「ええ」
ハッススとマッサンは顔を見合わせた。いくらなんでも、世間知らずに過ぎる。こんな身なりの綺麗な顔をした青年が、一人で港町をうろつくなど、自殺行為だ。よく見れば、騎士の剣すら帯びていないのだ。
「アンドラス様。剣はどちらに?」
アンドラスは苦笑いを浮かべた。
「旅費がなく、途中で売ってしまいました」
騎士にとって、剣とは君主よりの賜り物であり、名誉と同じく、命より重いもの…であるはずだ。二人は仰天して再び顔を見合わせた。そして笑った。
「これは…なんとも…
「船長、船で寝泊まりしても、いいですかね?」
「何をおっしゃられる。奴隷でもあるまいに、そんな扱いをしたと知れたら、オーナーに怒られてしまいます。私どもの宿においでなさい。費用は貸しにしておきますから」
「そうか、それはありがとう!」
翌日は朝から雨が降っていた。アンドラスは宿を出ると、昨日の集会所に向かう。すでに路銀が尽きている。食事はおろか、水を飲むことさえできない。実は彼は、昨日の昼から食事をしていないのだ。すきっ腹に自嘲の笑みを浮かべる。モンテスの後ろ盾のない僕など、浮浪者同然だ。
「アンドラス殿!」
声を掛けられ、振り向く。執事と、作業用のツナギを着た少女が立っている。
「やあ、君たちは確か」
「ヤグリス様の侍従の、パットと申します。こちらは使いのエレノア」
「久しぶりだね、エレノア」
たった一人、一文無しで港町にたどり着いたアンドラスは安堵した。ヤグリスの命じによって二人が追ってきたことは、明白であった。
「パット、すまない。何か食べさせてくれないか。あと、水。どうか哀れなモンテスの
エレノアは真顔でアンドラスを見つめたが、パットは笑って巾着から大きな銀貨を取り出した。
「こいつで朝ごはんにしましょうか」
「ありがとう、君は命の恩人だ」
品の良さそうな酒場を選んで中に入る。食事を頼むと、パンと、生イワシが盛られた大皿が出てきた。オリーブオイルがたっぷりかかっており、独特の芳しさが漂う。
「ああ、これですよ、これ」
パットは嬉しそうにイワシをつまみ上げると、丸のままかじり始める。
「おい、これは調理してないじゃないか…パット」
エレノアもパットの真似をして食べ始める。
「おいしい…不思議な味ね」
「この季節だけですよ。これが食べられるのは」
「生魚なんか食べて…お腹を壊すぞ」
アンドラスは明らかに腹を立てていた。笑うパット。
「これは失礼、焼いてもらいましょうか」
大皿をカウンターに持っていくパット。アンドラスはパンだけをかじり始めた。
「まあ、この魚臭い街でパンをかじっている方が、モンテスに戻るよりはずっといい」
エレノアは真顔でアンドラスを見つめた。この娘には、アンドラスの軽口が響かないらしい。
「アンドラス様はヤグリス様を、愛しては、いらっしゃらないのですか?」
「馬鹿な。ヤグリス…彼女は僕の全てさ。彼女から、なにか言付かったかい?」
「いえ、何も」
取り付く島もない応答に、さすがのアンドラスも苦笑する。
「やれやれ、会話の名手だな、君は」
「しかし、グザール公から、アンドラス様に餞別があります」
「なんだい?」
エレノアは椅子に立てかけてある、持参の布包みを見やった。アンドラスはその中身を、剣と見た。
「グザールの宝剣です」
「本当かい?そんなものを、なぜ僕に?」
「それはわかりません」
会話はここで途切れた。エレノア、顔は可愛いのに、これではな…食事を共にするなら、パットのほうがましだ。
「エレノア、その剣を見せてくれないか?」
「お店の中ですよ?」
「かまうもんか。客だって誰もいないんだ」
エレノアは包みをしぶしぶ、アンドラスに手渡す。包みを解くと、訓練用の木剣が一緒に入っていた。
「これは?」
「私のものです。護身用に」
「へえ、君もコイツを使うのか。ご主人様の影響だな」
その剣は、黒い布袋に収められていた。黒い塗料で塗られた鞘に、銀の装飾が施してある。磨き上げられ、優雅な曲線のフォルムの護拳。柄には獣皮が巻いてあり、黒く変色して時の流れを感じさせる。質素な見た目だが、言いえぬ凄みを感じる。
「これは驚いた。本当に、年代物だな」
アンドラスはちらとためらいを見せ、宝剣を抜き放った…つもりであったが、抜けない。力を入れても、抜けないのだ。
「なんだ?抜けないぞ。錆びてやがるな」
アンドラスは舌打ちした。そういう事か。それで俺に、こんなものを。
「グザール公は歪んだユーモアセンスをお持ちらしい」
パットが戻ってきた。テーブルに置いた大皿から、焼いたイワシの香りが立ち上る。
「ありがとう!パット。これは素晴らしい朝食だ!」
アンドラスはパクパクとイワシを食べ始めた。パットは、アンドラスが脇に立てかけた宝剣を見やって、眉を顰める。
「アンドラス様にお渡ししたのか」
エレノアが頷く。パットはため息をついた。
「その剣は…
アンドラスは食べるのをやめて、パットと視線を合わせる。
「古くグザール
「いいね、そういうの、僕は大好きさ。でも抜けない剣なんてね」
パットの深刻な顔を、アンドラスは笑い飛ばした。
「こいつも売り払って、船乗りたちの酒手にでもしようよ」
その時、パットとエレノアは、店に入ってくる冒険者たちの一団を見た。皆、雨に濡れて、入り口付近でマントを脱いでいる。
男が一人、アンドラスの背後に近づいてきた。
「おい、にいちゃん、席には武器の持ち込み禁止だぜ?」
「ああ、すまない。もう出ていくよ。コイツをかたずけてね」
アンドラスは微笑んで、残ったイワシを食べ始める。パットが勘定のために立ち上がった。
「新入り、丁寧に教えてやってるんだ。礼に一杯おごったって損しないはずだぜ」
二人の間に、逞しい体つきの女冒険者が割って入った。
「ソロン、何を絡んでいるんだい」
「コイツに店のルールを教えてやっているだけだ」
アンドラスは面倒くさそうに、布袋から宝剣を取り出す。二人の冒険者はぎょっとした。
「すまない。僕は無一文なんだ。コイツを買い取ってくれないか?」
アンドラスは心からそう告げたが、一体どこに自分の剣を売ってしまう貴族がいるというのか。冒険者は侮辱されたと感じ、アンドラスの手から宝剣をひったくった。その時である。
「痛って…」
冒険者が宝剣を取り落とす。見ると、右
「てめえ!何しやがった!?」
冒険者は恐怖から反射的に、アンドラスを蹴りつけた。転がって隣のテーブルにぶつかるアンドラス。周囲に冒険者たちが集まる。
「ソロン、よしな!」
「コイツ、斬りつけてきやがった!」
仲間たちに右掌を見せつける冒険者の男。胸元から布切れを取り出して圧迫止血を試みる。そして左手で、腰の短剣を抜き、逆手に構えた。
「抜きな、小僧。勝負してやるよ」
男は宝剣をアンドラスに向かって蹴りつける。尻もちをついた姿勢のアンドラス、その足に宝剣がぶつかった。
「待ってくれ、僕は何もしていない!」