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第35話 貴方を一生、恨みます

モンテス八世、三度目の結婚式。

花嫁となった十六歳のヤグリスは、すべての出席者の心を奪った。その容姿に、天上の神々ですら嫉妬すると噂が立った。赤い髪を上品に結い上げ、純白のドレスをまとった新婦。剣術や乗馬で鍛え上げられ均整の取れた肉体。伸ばした背筋に百合の意匠が取り入れられたウェディングドレスが映える。表情はヴェールで読み取れぬが、モンテス八世はその美に息をのんだ。

言うまでもなく、ヤグリスはグザール公の秘蔵っ子である。息子を事故で無くしたグザール公は、孫娘であるヤグリスの隠された輝きを素早く認め、男性への最高の贈り物として磨き上げた。律法を司る宗教界を牛耳り、さらに穀物収穫量でも群を抜き、諸侯会議で最も発言力あるモンテス家。それをたった一代でまとめ上げた、辣腕らつわん政治家モンテス八世。ヤグリスを送る相手として、これ以上の存在は理論上、もはやブレイク王室しかありえない。

法のモンテスと武のグザール。この強大な権力集団がこの日、姻族いんぞく関係で結ばれた。もはや、この同盟以上に影響力を有する政治集団は、ブレイク王国には存在しない。

「陛下、生涯、この身をもって尽くさせていただきます」

モンテス八世がヴェールを払うと、ヤグリスが笑顔で告げた。モンテス八世の胸が、高鳴る。まるで遠い日の少年の頃のように、胸が熱くなっていく。

「ヤグリス嬢、いえ、これからは妻と、呼ばせていただこう」

ヤグリスの右腕、ロンググローブを取り去って、その手に口づけをする。拍手が巻き起こる。結婚式は最高潮を迎えた。モンテス、グザール、すべての者がこの結婚を祝福した。いや、正確には、一部の者を除いて。


同じ頃…場面が変わって、ここはステフォン領に近いエルデ伯爵の館。裏口の前で、男が小雨に濡れて立たされている。扉が開くとメイドが周囲を確認し、男を招き入れた。帽子と外套を取り去り、銀貨とともにメイドに渡す。美しい金髪があらわになる。アンドラスであった。そのまま召使の控室に向かう。

「これを酒手にしたまえ」

メイド長が革袋を受け取る。ずしりと重い。

「お待ちですよ。アンドラス様を。それはもう、ご病気のように思い詰めて」

メイド長がニヤリと笑う。アンドラスはエルデ伯爵夫人、ネーナの私室へ向かう。扉をノックする。返事はない。声をかけて、扉を開ける。

茶色い髪を腰まで伸ばし、着飾った女性が立っていた。驚きの表情。アンドラスが微笑みながら、近づいていく。

「アンドラス様…」

「アンドラスでいい。ネーナ。逢いに来たよ」

ネーナの手を取る。その力強さに、ネーナはびくりと身を震わせる。彼女はアンドラスよりかなりの年上であるが、内面は初心な少女のようで、ふっくらとした体つきに、丸い童顔が愛らしい女性である。

「ご冗談だと、思っておりましたわ」

「僕には関係のない話さ。モンテスの事など」

「アンドラス様は、ゆくゆくはモンテスの諸侯となるべきお方。私などが、この様にお目にかかれる方ではございません」

「言ってくれる」

アンドラスは笑う。取った右腕をぐいと引き寄せ、ネーナの腰を、抱く。

「踊ろうか、ネーナ?でなければ、それよりも、楽しいことをする?」

「怖いお方。アンドラス様、お願い、私でなく、私のお金が必要だと仰って」

「君の金が必要なんだ。僕はベスチノに発つ。金がたくさん、要るんだよ」

ネーナは笑みを浮かべる。寂しい笑みを。

「これでいいかな?そういう事にしておいてくれないか」

アンドラスがネーナのうなじに顔を寄せる。ただそれだけで、快感がネーナの背筋をゾクゾクと伝わっていく。

「君は騙されている。悪い男に騙され、襲われて、金を巻き上げられた被害者なのさ。モンテスの破戒卿にね」

アンドラスとネーナは見つめ合った。

「いいかい?もし、何かあったらこう答えるんだ。いいね?」

ネーナはいやいやと首を振った。

「君をこれ以上傷つけたくないから。いいね?まあ、大丈夫さ」

アンドラスが扉の方を顧みる。鍵穴からメイドたちが、中の様子を興味津々といった様子でうかがっていた。

「お金をだいぶ渡してあるからね」

アンドラスは上衣を脱ぐとテーブルに置いた。シャツも脱いでしまうと、上半身があらわになる。色白で華奢きゃしゃな体つき。剣術で鍛えた最小限の筋肉しか付いていない。たくましくなどないが、その身体ははかなげな美しさを湛えている。アンドラスは両手でネーナの背を抱いた。ちょうどあごの下に、ネーナの可愛らしいつむじが見える。ネーナの身体が羞恥でこわばる。

「聴こえるかな。僕の鼓動。君と触れ合いたい」

びくり、とネーナが震える。彼女は恐る恐る、アンドラスを見上げた。

「君も服を脱げよ。ネーナ」

アンドラスはネーナの後頭部とあごに優しく手を添え、その唇を奪った。侵入していく。乙女のような純真を、砕きながら、甘く、乱暴に、侵入していく。

「脱ぐんだ、ネーナ」

「アンドラス様…まだ…日が高く…ございます」

ネーナが荒い息で、やっという。アンドラスは背中のコルセットを器用に外してしまう。

「脱げよ。ネーナ。僕には時間がないんだ」

ネーナは半ば恐怖で震える指で背中のボタンを外そうとするが、うまくいかない。アンドラスがボタンを取ってやる。ドレスがきつく、脱がせるのに手間どる。アンドラスは苦笑を浮かべて皮をむくように、ドレスを脱がしていった。ネーナは顔を真っ赤にして、アンドラスを睨んだ。

「私など、まともな殿方なら相手にしないはずです。貴方のような美しい殿方なら、なおさら」

アンドラスは微笑んで、かがみこみ、ネーナの身体を腰も使って横向きに抱えてやる。

「よっこらしょ!」

ネーナが慌ててアンドラスの首に手を回す。見つめあう二人。

「もう、いじわるね!」

ネーナを優しくベッドに寝かせてやる。

「君のせいなんかじゃない。悪いのは全部僕さ。見ろよ。僕はモンテスでは一番非力な存在なんだ。赤子ですら、僕を圧倒するだろう」

真面目腐った顔でアンドラスが言う。二人は笑った。

「キスしていいかな。僕の可愛い人」

「…ええ、あなたが良ければ」

ネーナのふっくらとした色白の身体に、アンドラスの指が這っていく。右手の指が下腹部に到達し、さらに下りていく。どうやら、ネーナの身体はずっとアンドラスを待ちわびていたようだ。驚くアンドラス。ネーナは羞恥に顔を覆った。

「馬鹿みたい。嘘なのに。アンドラス様が、私を愛してくれるなんて、全部嘘なのに!」

アンドラスはネーナの腕を開いて、優しくキスしてやった。

「ネーナ。嘘かどうかは、僕が決める。君じゃない」

その瞬間、ネーナの全てが解き放たれた。

そうよ、アンドラス様が決めてくださる。もし、嘘でも、それでもいい。

こうして、アンドラス様に、愛していただいて…ああ、アンドラス様、ああ。そんな…。アンドラス様、身を清めておけばよかった…アンドラス様。ああ、そんな、おやめになって…そんな、ご無体な…アンドラス様。

嘘じゃない…今、この、ああ、この時は、嘘などでは。お許しください…旦那様。ああ、アンドラス様、ネーナは、乱心してしまいます。ああ、もう、正気ではいられない。アンドラス様…。


恋人たちは長い間、睦あっていた。

独り、ベッドに残されたアンドラスは、音もなく雨が降っていることに気付いた。女の事を考えていた。

「アンドラス様」

傍らに、ネーナがいる。身を清め、室内着を羽織っている。その手に、封筒を携えている。ネーナは中身を取り出すと、アンドラスに渡す。内容物はエルデ家が、アンドラス個人に多額の債務を負っているという証明書である。

「こんなに…?」

ネーナは頷いた。

「君が責められることになるぞ。ネーナ」

ネーナは黙って、首を横に振った。

「船は、シュペン家に話がついているという事です。バスチオンという方からすでに文が届いています」

「バスチオン…?」

「路銀までは用立てません。さあ、お行きなさい。アンドラス」

ネーナは精一杯の笑顔を作った。

「でも、君は…」

「子どもがね、できないのよ。私…。私は役立たずで、用済みなの」

「…」

アンドラスは、心から、ネーナを抱きしめてやりたいと思った。慰めの言葉をかけてやりたいと、思った。しかし、それらすべてが、彼女をおとしめる行為だと気づいた。

「用済みのおばさんの心に、無遠慮に入ってきて…こんなに大きな穴をあけて…貴方を一生、恨みます」

ネーナはくるりと後ろを向いた。そして、窓に近づいていく。

「行って。アンドラス。帰ってきて、そして、もし、ほんの少しでも、私を覚えていたら、また、逢いに来て…」

アンドラスは立ち上がり、服を着た。ネーナは窓際から動かない。そっと近づいていく、アンドラス。背後から優しく、その肩に手をかける。

「また来るよ。僕の可愛い人」

アンドラスは去った。痕跡も残さずに。

ネーナは窓の外、雨粒をポツリ、ポツリと落とす広葉樹の葉を、ぼんやりと見つめていた。

嘘。…嘘。嘘ばかり…。でも、なんでこんなに心が温かくなるんだろう…。はっと、ネーナはアンドラスの言葉を思い出す。

「嘘かどうかは、僕が決める」

…そう、あの方が嘘とお認めにならなければ、アンドラスは、私の恋人。そして私は、あの方の可愛い人。

雨が、あがっていた。

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