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第34話 失恋した、少年のように

主人公ローリーが、貴族社会の光を体現しているとしよう。そのように考えると、アンドラスやフランシスは、貴族社会の闇をその人生に内包している、と言う他ない。彼ら異母兄の過去へと筆がさかのぼっていくにつれ、筆者はそのような印象を強める。

時計の針は、未だ過去を指し続けている。ローリーが出生する一年前、アンドラス十五歳の夏。この時アンドラスは破戒卿はかいきょうという不名誉な二つ名で呼ばれていた。もはやモンテス八世にすら制御不能であり、呪われた異母弟を平然と連れまわしてひけらかし、影で自身を侮辱するものがあれば必ず見つけ出して決闘を挑んだ。アンドラスは約束されていた、輝かしい諸侯への階段から自ら飛び降りてしまった。

当然、ファルドンにアンドラスの素行をいさめることなどできなかった。教育係である真面目な聖職者はプレッシャーに屈し、歪み、逃げの一手を打つしかなかった。ファルドンはアンドラスの矯正きょうせいを諦め、代わりに様々な娯楽を与えた。


「おはよう、愛しい人」

呼びかけられ、アンドラスが目を覚ますと、可愛らしい娘が自分をのぞき込んでいる。

「あ、おはよう」

娘は小ぶりだが形の良い乳房を強調するように背をそらし、金髪を払うと伸びをした。アンドラスは昨晩の娘とのひと時を反芻していた。

「楽しめたかしら?」

「うん…。君は、とっても綺麗だ」

娘はテーブルに置いた水差しから一杯注ぐと、一口飲んでからアンドラスに差し出した。

「アンドラス様と、私の相性って最高みたい。ねえ、お願い。これからも一緒にいさせて」

「もちろんさ」

娘はベッドを這っていき、裸のアンドラスに覆いかぶさった。その時、ノックもなしに扉が開いた。

「失礼します」

「きゃっ!何!?」

ファルドンが足早に寄ってきて、娘の腕をつかんだ。

「時間だ。仕事は終わりだ」

「お、お待ちください」

「服を着ろ。急げ」

ファルドンは周囲を見渡すと笑顔を浮かべた。

「よくやった。値相応の働きをしたようだ。礼は、はずんでおくぞ」

娘は慌てて服を着ると、ファルドンから金をもらって退室した。

「いかがでしたか?あの女は?」

「いかがって…」

アンドラスは慌てて下着を身に付ける。彼は昨夜、初めて女性と同衾どうきんしたのだった。

「あの娘にまた会えるかい?」

ファルドンは笑った。

「なりません。情が移っては大変だ。私がお叱りを受けます」

「でも、会う約束をしてしまった」

「そんなものは、お気になさらずともよい。あれは商売女です。もっとも、そこらの安物ではございませんがね」

アンドラスは素肌にシャツを羽織ると、そのまま刀帯を付けて部屋を出ようとする。あまりのだらしなさにファルドンが目を細める。コイツは人目など気にもかけない。ゆえに制御不能の破戒卿。女にでも溺れさせて、手綱を取るしかあるまい。

「ファルドン、今日の予定は」

「午後一時より、グザール公との会食がございますが。お出になるも、なられぬも、アンドラス様のご自由になさればよろしい」

廊下を歩いてゆくアンドラスの背に、ファルドンの声が追い付いた。

「ただし!弟君を連れまわすことだけは、なりませぬ!」


アンドラスは騎士の訓練場に向かって行った。まるでアンドラスを避けるかの如く、城内の人々は彼の道を空ける。アンドラスはそんな状況を苦々しく思う。もう、誰も自分を諫める者はいない。自分を叱ってくれる存在は皆無だ。だから、アンドラスは一度たりとて、全力で何かに打ち込むという事がなかった。それに応じる者が存在しなかったから。

訓練場に騎士たちの輪が出来ている。アンドラスはそこに、見慣れぬ者たちの姿を認めた。

乗馬服を着た女性。その侍従らしき少女と、執事の3名だ。

アンドラスは、そのようないで立ちの女性を初めて見た。モンテスでは決して許されぬことである。さらに彼を驚愕させたのは、女性が訓練用の木剣を手にしていた事実である。彼の足は自然と人の輪へと向かって行く。

騎士達が近づくアンドラスに気付き、静まり返る。女性はアンドラスに向き直って、笑みを見せた、が、その格好に眉をひそめた。

「ごめん、ごめん、さあ、続けて。面白い格好だね。君は」

アンドラスが笑顔を作った。女性にはその表情が侮辱と映った。

「私はヤグリス。グザール領より参りました。女がズボンを履くのは、面白いでしょうか」

「まあね」

へらへらと笑うアンドラス。風でその胸元が大きく開いた。騎士たちは、この珍妙な状況に好奇の目を注いでいる。

「では、私が剣をふるうのも、ここでは滑稽こっけいと映るのでしょうね」

ヤグリスはアンドラスの正面を避けて木剣を構えた。腰がぐっと落ちている。剣を担ぐような、独特の構である。

ヤグリスが気合とともに一歩踏み出すと、次の瞬間には剣が振り上げられている。斬り落とす動作がフェイントで入ったようだが、アンドラスには目で追う事が出来なかった。木剣とはいえ、並みのスピードではない。

「グザールではよくある事なんです。女も剣を使う。だって、殺されるよりは、笑われる方がいいでしょう?」

もちろん笑うものなど皆無である。場が静まり返った。ヤグリスが乱れた前髪を整える。アンドラスと目が合った。挑発されている。アンドラスはそう感じた。しかし、彼はただヤグリスを見つめることしかできなかった。昨晩の娘などもう頭から消え去っていた。今まで出会ったすべての女性の存在が、彼の頭から抜け落ちた…そう、ヤグリスを除いて。

「君は人を斬ったことがあるのかい?」

我に返ったアンドラスは、体面を取り繕おうと笑みを浮かべて、ヤグリスに尋ねる。

「いえ、幸い、そのような事態に立ち会っておりません」

「僕と勝負してくれないか?君に興味がわいた」

アンドラスは刀帯を投げ捨てると、傍らの騎士から木剣を取り上げた。

「お断りします」

ヤグリスが即答する。

「女性から名乗らせておいて、返礼しないなんて。その様な殿方にお会いするのは初めてです」

アンドラスは激しい羞恥しゅうちに見舞われた。今までにないことである。だが、破戒卿にも、この指摘を黙って受け入れる程度の分別は残っていた。アンドラスは俯いてしまった。まるで失恋した、少年のように。

のちにお目にかかります。アンドラス様」

「えっ?」

ヤグリスが微笑んだ。

「お出になられますよね?会食には。私共も出席いたします。グザール公とともに」

ヤグリスは騎士式に敬礼し、木剣を騎士に返すと2名の侍従とともに去っていった。去り際の微笑が、アンドラスの心に、生涯消えない傷跡として残った。

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