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第33話 浅情けは人を地獄に落とす

騎士となった幼きアンドラス。ある朝、少年は革製の刀帯がないことに気付いた。剣術の訓練まで間がない。アンドラスは収納棚をくまなく探すが、やはり、無い。

困っていると、部屋をノックしてファルドンが入室してくる。

「アンドラス様、お話が」

「どうしたの?」

「アンドラス様の部屋から、ここのところ、小物などが無くなってはいませんか?お気づきになられていますか?」

ドクンと、心臓がひときわ大きく脈打つ感覚。少年の鼓動が早まっていく。

「いや、気付かなかった。どうしたの?」

「盗まれています。会議室に人を待たせてあるので、おいでください」

どういう事だろう。アンドラスの心を黒雲が覆いつくした。アンドラスは自身が盗人として拘引されていくような感情を抱いた。

部屋に入ると、商人風の男が脱帽して、アンドラスに土下座する。

「お許しください!私は知らなかったんです!本当です!どうか、お情けをかけてください!」

その必死の懇願はアンドラスをたじろがせた。机上には、アンドラスがマシスに処分するように命じた品々の一部が、並べられてある。アンドラスは愕然とした。血の気が引いてゆく。

「重窃盗を働いたものだけでなく、関与したものも死罪である。しかし、其方が実情を知らずにこれらを買い受けた、というのであれば、所有者である貴族からの恩赦おんしゃを乞う事が出来る」

ファルドンが冷たく言い放った。男を見下ろすその姿は威圧的で、アンドラスは今までに一度もそのようなファルドンを見たことがなかった。

「神様に誓って本当でございます!私は存じ上げませんでした!ですから、おかしいと思って、お城に直訴に参じたのでございます!どうか、どうか!」

商人が額を床にこすり付けて、大きな声で訴える。アンドラスの足が、震えた。

「まさかとは思いますが、アンドラス様が、これらモンテスの什器じゅうきを勝手に処分なさったのですか?」

「ちがう」

アンドラスは反射的に答えた。ファルドンはなおもアンドラスから視線を動かさない。アンドラスは目を合わせることができない。

「よろしい。おい、面を上げろ。今回のことは不問とする。私の方でな。其方はこの事を秘して決して口外してはならぬ。よいな」

「はっ、もちろんでございます!何も知りません、何もお聞きしておりません!」

「僕、剣の時間だから…」

そう言って退出しようとするアンドラスを、ファルドンが鋭く呼び止める。

「アンドラス様。もう一度お聞きいたしますが。これらの品が売りに出された件について、ご存じないという事でよろしかったでしょうか?」

アンドラスの頭にマシスの面影がちらつく。しかし、アンドラスは首肯し、その場を逃げ去った。


その日から、アンドラスがマシスと出会う事は二度と、なかった。アンドラスはその事実から逃げ続け、忘れようとし、とうとう、それが叶わぬと知ると、ファルドンに問うた。

マシスに何が起きたのかと。

ファルドンはマシスの処分について静かに語る。その答えに、アンドラスは凍り付いた。

「どうしました、アンドラス様。ご気分がすぐれませんか?」

「いや、いいんだ」

ファルドンは優しく微笑んだ。

「ゆえに浅情あさなさけは人を地獄に落とす」

「…えっ?何?」

「いえ、こちらの事。そういえば、こんなものを見つけました」

ファルドンは衣装棚から、アンドラスの釣り具を取り出した。

「かようなご趣味があったとは。しかし、川遊びは危険です。もし御身おんみさわりがありましたら、私がお叱りを受けますので」

アンドラスは目を見開いた。忘れていた…いや、意識の奥底に押し込んでいたものが、あらわとなった衝撃に、立ちすくむ。

「うん、もうしないよ」

二人は微笑を交わした。その後、アンドラスは道具を焼いてしまい、二度と釣りをしなかった。

アンドラスはマシスのことを片時も忘れなかった。あの時、僕が恐怖から逃げずに、僕が売りました、僕がマシスに売らせましたと、本当のことを言っていたなら、状況は変わっていただろうか?

いや、変わらなかったさ、何もね…。麻薬のように、嘘がアンドラスの心に沁み、耐えがたい痛みを和らげる。

…マシスの弟たちはどうなったんだろう…!?突然、ぞっとするような空想が、少年の柔らかな心を切り裂いていく。

僕は…僕は…僕はやっぱり闘技場でも人を殺したのではないか?逃げ出して、地に伏した、無抵抗の人間を。

僕は、地獄に落ちるのか…?


「アンドラス!アンドラス!やめよ!そこまでだ!勝負ありだ!」

我に返るアンドラス。目の前の同輩が胸を押さえてしゃがんでいる。木剣での訓練中、アンドラスの切っ先が鋭く相手の胸を突いた。アンドラスには何が起きたかわからない。黙って立ち尽くす。

「アンドラスよ。最後の一突きは、意識してのものか?」

訓練の責任者である、分団長が問う。

「いえ、すみません。最近、考えがまとまらないんです」

俯くアンドラス。ウィリアム分団長は片膝をついて、アンドラスと視線を合わせる。その小さな肩に手をかけた。

「本日は充分である。少し休まれよ。アンドラス殿。剣を無心で振るうと、危険だ」

「…はい」


時が流れた。アンドラスの母、ヴォーナはすでに正気を失い、食事はおろか排泄も他の者の手を煩わせる事態となっていた。彼女はほとんど眠ることがなく、時折、あてがわれた高い塔の一室からは歌声や叫び声、笑い声が響いた。

そんな中、モンテス八世は二番目の妻を迎える。マルゴ。モンテス八世の実妹であり、アンドラスがよく知っている叔母である。

「おばさんが、僕の新しいお母さんか」

嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な気持ちである。マルゴはかつてステフォン領で暮らしていたが、それでもたびたびモンテス城へとやってきて、アンドラスと会ったときにはとても可愛がってくれた。

モンテス公、その二度目の結婚式も、大層華やかであった。宴席は三日間続いた。

アンドラスは叔母であり、新しい母に、祝福の口づけをした。

「お母様、心からの祝福を、あなたに捧げます」

「ああ、アンドラス!」

マルゴはひざまずく甥、今や息子であるアンドラスの手を取って立たせると、抱擁を交わした。

「本当に立派になられて…どうぞ、私を助けてください。明るいモンテスの未来のために、どうぞ、一緒に」

異国の糸で織られた極上のドレス。ブレイク王国の職人が作り上げた見事なジュエリー。着飾った叔母は、美しかった。頬を赤らめるアンドラス。

「もちろんです、お母様」

それから、つかの間の幸せがアンドラスを優しく包んだ。大きくなった母のお腹に耳を当てるアンドラス。

「動いていないよ…お母様!」

「ふふっ、そんなことないわ。元気がいいんですもの。次にお腹を蹴ったら、教えてあげるわ」

お腹を優しく抱く、アンドラス。子にはすでに名が与えられていた。モンテス中興ちゅうこうと呼ばれる、聖人フランシスにちなんで。

「フランシス、出ておいで。早く出ておいで。お兄ちゃんがお世話してやるからね。お前のうんちだって、綺麗にしてあげるから」

アンドラスの美しい金髪を、優しくなでるマルゴ。

やがて、フランシスが生まれる。誰も望まなかった形で…。

この事について、本来はここで語るべきなのであろう。しかし内容はバスチオンがローリーに語った通りである。

結局、マルゴは産後の経過が悪く、感染症を患い、乳児を残して先立ってしまった。

アンドラスが最後に母を見舞ったとき、彼女は高熱と、絶えず全身を襲う痛みに身を震わせていた。うっすらと目を開け、アンドラスを認めるマルゴ。涙がこぼれる。なにかつぶやいている。耳を近づけるアンドラス。

「お前が、早く出てこいと言ったから…フランシスは…あんな…姿に…」

「えっ…」

最後の対面が終わる。医師は人払いをすると、薬でマルゴの苦痛を取り去ってやった。永久に。


フランシスはまともに育たないだろう。モンテス城の誰もが、口に出さずにそう思っていた。そう願っていた、といった方が正しいかもしれない。しかし、フランシスは懸命に生きた。

「変な顔。カエルみたいだ」

アンドラスは笑って、小さなフランシスを抱き上げた。フランシスの閉じることのできない口から、可愛らしい舌がちらちらと覗いている。

「お腹がすいているのかい?」

フランシスの容姿におびえて、乳母はどんどん変わっていった。アンドラスは瓶に絞った母乳を、綿のハンカチに沁み込ませ、組んだ膝に寝かせたフランシスに、うまく吸わせる。

モンテス家は呪われた血脈である。当主の強引な政治手法が、マヌーサの怒りを買ったのだ。フランシスに係るものも、呪われる。このような噂がどこからか生じて、瞬く間に広まった。それからというもの、なお一層、アンドラスはフランシスをかわいがって世話を焼いた。男性が育児にかかわるなど、想像も出来ぬような時代である。アンドラスの行為を、モンテス城の誰もが軽蔑していた。

フランシスの顎を肩に乗せて、丸い背中をさすってやるアンドラス。

「死ぬなよ、フランシス。お前をこんな風にした奴を、僕が探して、殺してやるから」

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