判決を待つ法廷には、開廷時よりさらに多くの人が押し寄せて、秋口だというのに熱気で汗ばむほどであった。
雨はいつの間にか上がり、分厚い雲からは、真っ白な陽光が輝く柱となって濡れた大地にそびえた。
再び、3名の裁判官が法廷に姿を現す。傍聴者は一斉におしゃべりをやめて、注目した。中央のファルドンが口を開く。
「まず、皆さまに申し上げるのは、本件につき、判決は出ないという事です」
ローリーは驚き、席を立った。法廷内がざわつく。
「というのも、先ほど、追及者側から訴えの取り下げがありまして、スパイ罪については後日、改めて公判期日を設けたいと思います」
「裁判長!そのような露骨な訴訟引き延ばしをお認めになるのですか!?」
ローリーが発言する。傍聴席の騎士や、観衆からは、同調する声が上がり、ヤジが飛ぶ。
「弁護人の発言ももっともですが、追及者から、訴因変更の申し出がありまして、スパイ罪から信書開封の罪に、審判内容が切り替わります」
「そんな!」
バルカスは組んだ
「そういう訳だ。ローリー君。訴訟準備が無駄になったことは詫びるが、それが裁判制度というものなのだよ」
ファルドンが申し訳なさそうにローリーに語る。
「弁護人ローリー。それでは信書開封罪について、裁判期日を設定します。希望はありますか」
ローリーはうつむいたまま動かない。法廷は静まり返った。ローリーに同情の視線が集まる。バスチオンのみが、微笑みながらローリーに視線を送った。
「…よいでしょう」
顔を上げたローリーは、にこやかな笑顔を浮かべている。弁護人は疲弊し、おかしくなってしまったのか?もちろん、そうではない。
「信書開封罪、王国刑法第133条、その罰則は1年以内の懲役ゆえ…」
ローリーは思い出すように右上に視線を向ける。システムのディスプレイが感知できない観衆には、ローリーはまさしく神童と映る。
「
法廷内が再びざわつく。ファルドンは法律書のページを慌ててめくり始める。追及者バルカスが立ち上がった。
「保釈?被告人の身柄解放など、追及者側は承服できません。逃亡、証拠隠滅の恐れがある!」
ローリーがバルカスに向き合う。
「バルカス、あなたの同意など、保釈の条件ではない。これは必要的保釈と言って、条件を満たす限り、必ず身柄が解放される制度です」
「馬鹿な。口から出まかせを。バスチオンを逃がすつもりだな!」
「口を慎みなさい。バルカス。神聖な法廷内ですよ」
ローリーは静かに、しかし力強く言い放った。法廷は一瞬の静寂に包まれる。
「逃がすだって?それを防ぐための身代金です。そしてバスチオンは現に総督代理の地位にある。私も、彼も、逃げも隠れもしない!」
ファルドンはなおも法律書にかじりついている。他の2名の裁判官が目で合意する。やがてステフォンの裁判官が発言した。
「弁護人の言う通り、本件は必要的保釈の認められる軽微事案です。保釈金を確認しましたので、被告、バスチオンの身柄を開放します」
傍聴席から歓声が上がる。ローリーは被告人席に歩んでいく。バスチオンがローリーを見上げる。その顔は幾分とやつれたように見えるが、いつもの微笑が浮かんでいた。
「信じておりましたよ。ぼっちゃまを」
「僕だってそうさ」
ローリーは廷吏に、バスチオンの腰縄を解くように指示した。
法廷内はローリーを称える声で満ちていた。バスチオンを
「まて!勝負はまだついていない!」
「期日については追って
「必要的保釈とやらの根拠条文を述べろ!」
ローリーはため息をつく。その時、周囲の騎士たちと目が合った。
「勉強をやり直すことです。もっと謙虚にね。あなたは八歳の子どもにすら、裁判で負けたのだ」
バルカスは騎士達に両脇を抱えられた。
「何をする!無礼な!私は王国の追及者だぞ!」
「そんなことはわかっている!俺たちは貴様を本国に送り届けねばならんのだ!気が進まぬ任務だがな!」
法廷から引きずるように連れ出されるバルカス。何事かわめいていたが、その声は歓声にかき消された。
バルカスが迎賓館に連行されると、そこにはすでに、同行していた王国の書記官たちも待たされていた。
「今日中に書類を作成する!手続き期日が過ぎてしまうからな」
バルカスは歪んだ笑みを浮かべ、作業を始める。執念深い男である。この期に及んで、裁判を蒸し返そうとしていた。
すると、会議室に意外な人物が入室してきた。
「これは、ヤグリス夫人…」
バルカスは席を立って一礼する。ヤグリスもドレスの
「私の失態を、ファルドン司祭からお聞きになったのですね」
ヤグリスは目を細めた。ファルドン?唐突に出た名であると感じたが、話を合わせる。
「ええ、そうです。しかし、失態とはずいぶん、ご自身を卑下なさる」
ファルドン司祭と追及者バルカス。妙な取り合わせではあったが、二人は律法研究会で議論を重ね、ヤグリスは彼らと何度か食事の席を共にしていた。
ヤグリスが微笑み、告げる。
「しかしブレイクがバスチオンを告訴するとは、正直、背中から刃物を突き立てられたような思いです」
「さようですか。だが私とて、組織の命で動いている」
「組織の?ファルドンの命じ、では?」
バルカスは沈黙した。それが答えであった。ヤグリス、貴様が背後で糸を繰っているのだろう?…ここで私を切り捨てるつもりか。バルカスの紳士然とした態度が、崩れ始めた。
「バスチオン、あの男はいずれ、モンテスに害をなすことでしょう。ローリーを手懐け、意のままに操るつもりだ。貴女のご愛息、ローリーを」
「そう、確かに、とらえどころのない男です。しかし、これ以上の追及は私が許しません。手をお引きなさい。バルカス」
もはや二人は周囲の書記官たちに
「法廷でコケにされ、私がこのまま引き下がるとお思いか」
「判決は出ていません。勝負はついていない。訴えを取り下げれば、あなたの経歴に傷などつかない」
「ほう、取引しようというのか。王国追及者である私と」
ヤグリスは薄く笑む。妖艶とさえいえる美貌、しかし、その瞳は蒼月のように冴えている。
「ある御仁に言われたのです。法廷では剣の腕など、役に立たないと。しかし、ここは法廷ではない」
バルカスはヤグリスの瞳をぼんやり見つめていたが、彼女が、いつの間にか鼓動を聞き取れるほどの距離にいることに気付き、背筋に冷たいものを感じた。
「あなたは今まで、安全な場所から他人を
「…私を
「恫喝などではない。忠告です。私の部下は忠実だ。騎士たちは、私が心で命じても、それを実行する。もっとも、モンテス城内であれば、あなたの身の安全は団長である私が保障できる」
バルカスは部屋の外に、カチャカチャという刀帯のすれる音を聞いた。武装した集団の気配を感じる。その顔から血の気が引いていった。
「わかった。再起訴は見送る」
バルカスはすぐさまカバンに荷物を詰め始めた。ほっとしたように書記官たちも荷物を持った。
「王国の馬車はすでに発っていますよ。騎士団が本国までお送りしますから、お待ちを」
「なんだって!?」
慌てて部屋を出ようとするバルカス。しかし、入室してきた巨躯の騎士に押し戻される。
「領地の境は強盗団が多い。身なりの良いもの、貴族、ましてや王国の追及者などは必ず狙われる。もっとも…」
ヤグリスは哀し気にうつむいた。
「死体は大抵、裸でどぶに打ち捨てられることになる。どこの誰かわかろうはずもない」
「私の馬車をどうした」
バルカスの声が震えている。
「退去させました。約束の期限が過ぎましたので。早く乗り込めばよかったものを」
騎士たちが続々と入室してくる。皆一様に無言で、バルカスを睨みつけている。バルカスの足が音を立てて震えはじめる。書記官たちは凍り付いたように動かない。
「人を罪に陥れる者。犯罪者を作り上げる者。無辜を罰するもの。これら皆、マヌーサの法に反するもの」
ヤグリスが優しく、歌うように諭す。
「これら皆、モンテス騎士団の
突然、バルカスはヤグリスの前にひざまずいた。
「お、お許しください、騎士団長様。非礼が過ぎました。貴女のお申し付けに従います!どうぞお目こぼしを!」
ヤグリスは微笑み、巨躯の騎士に命じる。
「ウィリアム、護衛を選んで。バルカス殿は悔い改めました。命だけは必ず持ち帰らせなさい。後はよろしく頼みます」
モンテス騎士団、第二分団長ウィリアムが頷き、号令をかける。
「団長がご退出なさる。総員、気を付け!…わかれっ!」
ヤグリスは敬礼を返すと、退室した。
さて、その後バルカスがどうなったか…王国追及者である彼の名誉のために、具体的記述は差し控えたいと思う。