礼拝堂を囲むように配置された曇りガラスから、午後の陽光が差し込んで主なき司祭席を照らした。
そこから少し手前の信者席にぽつんと一人、少年がひざまずき、熱心に祈りを捧げている。
人けのない礼拝堂の空気はひやりとして清しい。
少年、ローリー・モンテスはこの教会の存する領地の総督である。ゆえに彼は規範を逸脱したものを裁かねばならない。
神は人を造ったがゆえに、裁くことができる。では、被造物である人が、神に代わって、同じ人を裁くことは許されるか。彼はその答えなき問を、心に抱き続けてきた。
そんな少年を、甘く、感傷的に過ぎると評価するものもあるだろう。しかし、ローリーは総督として、犯罪者の恐ろしい末路を目にしてきた。自ら手を下すことさえも、あった。
もし、判断に誤りがあったなら。罪のない人が裁かれる事があったなら。それこそが取り返しのつかない、罪ではないか。
ローリーは祈った。女神に祈りをささげることで、自らの迷いを断ち切ろうとしていた。
だから少年が、背後からそっと近づいてくる人物に気づくことはなかった。
「偉いのね」
「わっ」
突然、背後から声をかけられてローリーは驚いた。声をかけた人物も慌てたようだ。
「ごめん、そんなに驚かなくても。でも、お祈りを邪魔してごめんなさい」
それはローリーと同じオレンジ色の髪を、ポニーテールにまとめた少女であった。紺のエプロンを身につけている。青いつり目に形の良い鼻が印象的な、美少女である。見たところ、年はローリーよりも五、六歳は上に思われた。
「はじめまして。何のごようじ?」
「いや、僕は、お祈りしに来ただけです」
少女はローリーを眺めまわした。質素な身なりであるが、商家の息子にしては仕立ての良い服を身に付けている。しかし、貴族の子どもがこんな場所に一人でやってくるはずがない。
少女はローリーを、ここ、慈愛の水がめ教会に連れてこられた、孤児の一人であると判断した。
「あなたもみなしごなの?」
ローリーは少女の言葉が聞き取れなかった。しかし、笑顔を作ってあいまいに応答する。
「ええ…そのようなものです」
「そう、なら私たちは今日から友達ね。でも…」
少女は困ったように言った。
「残念だけど、ここではもう、子どもの面倒は見ないの。残念だけどね」
グザール第一管区の慈愛の水がめ教会。ここは孤児院を経営し、身寄りのない子どもたちに食事や、寝床を提供するなどしていた。その責任者、マザー・グレースは高齢のため引退を余儀なくされたが、後継が不在のため、孤児のための奉仕活動は終了しようとしていたのである。
今日、ローリーは、マザー・グレースのために開かれた、ささやかな慰労の集いに、大口の献金者として呼ばれていたのであった。だが、ローリーはそのことを少女に伝えることはしなかった。聖典の教えに従い、善行を自ら語ることはしないと、考えていたからである。
「あなたの様な女性が、子どもたちの世話を?」
「へえ、大人みたいな口をきくのね。あなたって」
年下の少年の整った身なりと口ぶりに、少女は馬鹿にされたと思ったらしい。彼女は突然、自分の身に付けている所々すり切れたスカートや、エプロンを恥ずかしく思った。慇懃なローリーの態度に、うっすらと不満がにじむ。ローリーはそれを敏感に察した。
「いや、ちがうよ。ごめんなさい。お姉ちゃんみたいな人が、子どもを助けてくれるんだって、嬉しくなったんだ」
ローリーは精一杯の笑顔を作った。すると、少女も、優しい笑顔を見せてくれた。
「ありがとう。だって、親のいない子はみんな兄弟姉妹でしょう?誰だってみんなマヌーサ様の子どもなんだから」
ローリーの顔がぱっと明るくなった。
「僕も、そう思います!お姉ちゃんは、とっても素敵だ」
ローリーは握手を求めて右手を差し出した。少女は赤く染まった頬を隠すように、勢いよく手を握り返して言った。
「あなたいくつ?ずいぶんとおませさんだこと」
「僕はローリーといいます。お姉ちゃんは?」
「私はアムリータ。よろしくね、ローリー」
アムリータは精一杯、自身を大人っぽく見せようと、気どって腕組みをした。すると、そのしぐさは少女の可愛らしさを一層引き立てたのだった。
ローリーとアムリータが教会を出ると、庭にたくさんの子どもたちが集められていた。ローリーは質素倹約を美徳とする教会に合わせて、正装ではなく、平服で訪れていた。当然、孤児らの身なりはローリーよりもずっと貧相である。皆、ローリーと同じくらいの背丈で、ほとんどの子どもが粗末な麻の貫頭衣をまとっている。しかし、それぞれ顔がきれいに清められており、ちゃんと靴を履いている。子どもたちは、好奇の目でローリーを見つめた。
「みんな、ここで暮らしているんですか」
「そうよ。今まではね。さあ、みんな、働かざるもの、食うべからず、よ!」
アムリータが指示を与えると、三々五々、各々の役割を果たすために子どもたちは散っていった。2、3名の子は、話を聞いておらず地面の石で遊び始める。
「ほらほら、なにやってんの。早く水汲み手伝いなさいよ!お昼食べられないわよ!もう」
教会と、宿泊棟で挟むようにして大きな庭があり、そこにテーブルがいくつも並べられている。宿泊棟からマザー・グレースが姿を現した。
グレースは七十歳を超える長命の女性であり、五十年近く、この教会で貧しい人たちや、孤児たちに奉仕活動を行ってきた。慈愛の水がめ教会の運営は、全て貴族からの寄付で
しかし、長引く戦争によって若い働き手が管区全体で減少し、人手不足はどうにもならなかった。
「マザー・グレース。および頂いて、光栄です」
マザー・グレースは司祭補という、聖職者階級でも下位職を任じられていたが、その功績はだれもが認めるところであり、実質的に第一管区の儀式責任者として組織内でも、外部においても、敬われていた。司祭補の特徴的な頭巾でおおわれているが、その頭髪は真っ白で、それは彼女の長く、愛に満ちた人生があらゆる
ややくぼんだ
「ローリー・モンテス。短いお付き合いでしたが、神のお引き合わせに、感謝します」
手のひらを内に向け両腕を胸で交差させる、教会式の挨拶を2人は交わした。
「マザー、そろそろお席のほうに」
職員に促されて、グレースは席につく。9月。ここのところ肌寒い日が続いていたが、今日は天気も良くぽかぽかとした陽気で、時折、秋の訪れを告げる優しい風が吹いた。
ローリーのもとに若い男が駆け寄る。先日、飛蝶騎士団に入団した、騎士見習の少年、レイザーである。
彼はローリーよりも年かさで身長も高い。だから二人並んだ姿は、まるで兄弟のようである。
「ローリー様。通りで男があなたに、これを」
レイザーはローリーにリボンで飾られた生花を手渡した。
「ありがとう。誰かな?」
「それが、名乗らずに行ってしまって。怪しいものではないと思いますが、体格の良い、兵士のような男です。金髪の」
ローリーはグレースが座る、主賓席に赴いて花を手渡した。
「マザー、お届け物です」
グレースは花を受け取り、そっと顔を近づけた。
「いい香り。ありがとう、わかるわ。どの子がこれを、私に渡したのか」
グレースはため息をついた。ローリーは何故だか、彼女が悲しそうな様子であると思った。
「マザーは、今まで面倒を見てきた子どもたち、皆を覚えているのですか?」
「ふふ、まさかね」
マザーは笑った。その笑みは少女のように愛らしい。
「でもねローリー。手のかかる子ほど、記憶に残るものなの」
グレースは過去に思いをはせていた。
「私は罪深い女です。でもね、生きていなければ、罪を犯すことだってできません。そうでしょう?」
ローリーは黙ってグレースの表情を見つめていた。
「ここではかつて、子どもたちは犯罪者になるか、死か、どちらかを選ばねばならなかった。そして私は、子どもを助けたかったの」
どこかで、誰かが、似たような科白を使っていたな、と、ローリーは感じたが、思い出せなかった。
「さあ、席にお着きになって、ごめんなさいね。おばあちゃんはね、今この時よりも、過ぎていった時のほうが、ずっと鮮やかなの。困ったわね」
ローリーは黙って微笑み返し、席についてパーティーの始まりを待った。
食事はパンにチーズ、魚、ワインの質素なものであった。子どもたちから、マザーへと花束の贈呈があり、多くの来賓が、マザーと直接、話をしたがった。
街の顔役から、労働者まで、大勢の人が彼女に感謝の言葉を述べ、別れのあいさつを交わした。きっと孤児院の出身者も多くいたことであろう。マザーは疲れが出ていた様子だったが、その顔は喜びに輝いていた。
「この孤児院の運営から、手を引かなければならない事、心から、苦しく思います」
マザーは最後の挨拶を述べていた。
「ですが、私自身が皆の手を
マザーはここで言葉を区切った。
「誰もがその内に、生きる輝きを秘めているという事です。そしてその輝きが表れるのは、日々の祈りによってです。どうぞ祈ってください。そして、自分の中の輝きを、恐れないで。どうぞ、空高く、掲げてください」
マザーが座ると、拍手が起こった。拍手が鳴りやまない。いつまでも、拍手が青い空に響いていた。
マザーはその日からグザールの聖職者協会が運営する養老院に入所した。そして同時に孤児院は、その役割を終えたのだった。