「ぼっちゃまは、そこで、誰かに会いませんでしたか」
ローリーはギクリとした。バスチオンは、ローリーが誤って北塔に侵入した出来事をなぜ知っているのか。それはともかく、ローリーは自己弁護より情報収集を優先した。
「う、うん…あやしい、なにか人でないものを。でも、僕の感が告げていた。あれは、怪物や幽霊なんかじゃない。確かに人だった」
バスチオンがうなずく。
「お話すれば長くなります。ともかく、モンテス公と二番目の奥様の間に生まれたお子は、生まれついて特異な形質を有していた」
「それって、つまり?」
「その子は生まれついて、障がいをお持ちであった、という事です」
「…なるほど、そうだったのか。けど、その兄はモンテス城ではなく、なぜグザール城に?」
バスチオンは首を横に振った。
「私も詳しい
バスチオンは目を閉じると、嘆息した。この事実はモンテス家の暗い歴史の一部分であるに違いない。
「じいは会ったことがあるの?兄に」
「ええ、まだ赤子でしたが。その赤子の姿をご覧になった奥方は、御心を失われたのでございます。そしてお産が原因で床に臥せり、亡くなられました」
ローリーは茫然とした。そんな悲しい出来事が僕の家にあっただなんて。お父さんは一度もその事を、おっしゃらなかった。
「王族殺しは、神ですら呪いを受けるといいます。お兄さまの処遇に困ったモンテス公は、お兄さまをお隠しになった」
ローリーの心に黒雲が広がっていく。お父さん、お母さん、僕に、トレッサ。僕らは幸せだった。少なくとも、外見上は。でも、過去にそんな出来事があっただなんて。ふと、ローリーは気づいた。そう、お兄さまはまだ生きている。このグザール領で、生きているのだ。
「どんな方なのですか、僕の兄は」
「わかりません。ただ」
「ただ?」
「お名前は生まれる前から、モンテス公がお授けになっていた。フランシス様と」
「フランシス…」
ローリーの心に突然、兄に会いたいという衝動が沸き上がった。どんな人物で、お父さんは兄をどう思っているのか。悲しい結果に終わるかもしれない。でも、ローリーは同じ血を分けた異母兄に一目会ってみたかった。そんなローリーの心の内を見透かすように、バスチオンは語り始めた。
「ぼっちゃま。
バスチオンの真剣なまなざしはローリーの心の奥を刺すようであった。
「城の北塔に赴くことは、確かにグザールの禁を犯す行為ではありますが、モンテスの者にはそれは及びますまい」
バスチオンは微笑んだ。
「グザール公には私がおとりなしを。ぼっちゃまがお叱りを受けるようであれば、その責、必ずや、全てじいが引き受けます」
深く礼をするバスチオン。ローリーはバスチオンの献身的な姿に、いつも勇気をもらっていた。
「ありがとう、じい。大好きだよ。僕、あってみるよ。お兄さんに」
日中の北塔はいくぶん、雰囲気が変わったように思われた。明り取りから帯状に差し込む陽光が、神々しい印象さえ与えた。らせん状に続く急な階段を上っていくと、ローリーは塔の先端部と思われる大きな円形の部屋にたどり着いた。ここは以前、ローリーが怪しい影を目撃した場所であろうと思われた。
石組みの部屋に、木材で壁と扉が増設されている。いかにも後で仕切りを追加したという状態である。ローリーは中から、人の気配を感じた。この北塔に、人知れず兄、フランシスが暮らしているというのか。ローリーはそっと扉に近づいていく。その閉じられた扉の前で、彼は驚くべきものを発見した。
それは一枚の紙である。そこには、ムクドリが写し取られていた。それはあまりに精緻な模写であって、ローリーはまるで本物のムクドリが、小さくなって紙の中に閉じ込められているかのような、錯覚に捕らわれる。これほどの技量を持つ画家が、グザールに存在していたとは。
その時、扉の奥で若い女の笑い声がした。驚き、息を潜めるローリー。鍵穴から、中を覗く。無作法であるが、そのような心遣いをする余裕をローリーは失っている。
狭い視界に、若いメイドと、男の子の姿が映った。メイドはフリージアとほとんど同じ年齢と見受けられる。子どものほうは、シャツにズボンであるが、よく見るとそれは子どもなどではなかった。髪は伸び放題で、手足が極端に短い。顔は良く見えないが、その人物は、
「もう、おやめになって。まったく、いつまでたっても、おっぱいが好きなんですから」
メイドが話している。まるで、わが子に語りかけるかのような、優しさにあふれた声色であった。
ローリーは自身の罪深さに気づいた。慌ててノックし、部屋のノブに手をかける。
「失礼いたします!」
焦って扉を開けてしまった。部屋の中のメイドと男は驚きに飛び跳ねる。ローリーは
「お許しください!」
メイドがベッドから飛び起きて、床に額をこすりつけるようにして平伏する。そしてローリーは見た。謎の人物の顔を。
なんて醜い男だろう。ローリーは呆然とした。突き出たあごは噛み合っておらず、よだれが垂れて光っている。鼻から上は奇妙なゆがみがあって、左から右にずれるように二つの目がついている。くせ毛の黒髪は整っておらず、その異相を強調している。短く、ウサギの様な両手。そして、足はどうやら長さがそろっていないらしい。身体が傾いていた。そのような怪物が、貴族の嫡子の如き小ぎれいな服装に包まれているという点が、その醜さを際立たせている。
その男は、平伏したメイドの肩や、背中を必死にさすっている。まるでいたわるようなしぐさ。そして、赤子のように泣き出した。
ローリーはひとまず、目の前の二人を落ち着かせ、敵意のないことを伝えようとした。
「お顔を上げてください。私はあなた方に害を与えるものではありません。どうか、私を信じてください」
ローリーは片膝をついて、メイドに優しく語りかけた。彼女はゆっくりと顔を上げる。
「あなた様は?グザールの騎士様でしょうか?」
「いいえ、私はローリー。第一管区の総督をしている者です。あなた方にお会いしたいと思って、やってきました。私は味方です」
ローリーは精一杯の笑みを作った。ローリーの善良さは言葉だけでなく、その立ち居振る舞いにも表れている。メイドは落ち着きを取り戻し、泣いている男の頭を撫でて落ち着かせた。
「ねえ、大丈夫よ。大丈夫。この人はお友達よ。ね、泣き止んで。ママは大丈夫だから」
「んまあ…」
奇怪な男が喃語を発する。涙にぬれてよだれをたらす、この男が、僕の兄だというのか。
「メイドさん、この方のお名前を教えていただけませんか。私の親族かもしれないのです」
メイドは明らかに当惑していた。
「騎士様、申し訳ございません。このお方の名を外部に語ることは、私にはできないのです」
再び両手を揃え深く低頭する。
「もしや、フランシスさんでは?」
メイドが、はっと顔を上げる。全て、その表情が語っていた。
彼女の名は、マイアという。三年前から、フランシスとこの北塔で過ごしているという。二人は半ば、幽閉されるようにこの高塔の部屋で毎日を過ごしてきた。しかし見たところ、食事、用便、入浴などに不自由はなさそうである。なにか特別な事情で、この二人は外界から隔離されている様だった。
「フランシス様のお顔は、私も、最初は恐ろしく感じました。でも」
マイアは澄んだ瞳でまっすぐにローリーを見つめ返した。
「フランシス様のお心は、天使のように美しいと、思っています。私を気遣い、とても愛してくれているのです。まるで母子のように、私を慕ってくださっています」
ローリーはフランシスを見つめた。フランシスはすでに泣き止んではいるが、マイアの腕をつかみ不安そうにローリーを見つめている。
その顔はやはり醜いが、その瞳にはどこかモンテスの面影があるように思われた。
「大丈夫です。フランシスさん、僕はあなたの弟なんです。お会いしてわかりました」
ローリーは立ち上がった。
「私はお二人を傷付けるために参上したわけではありません。私は純粋に、兄に会いたかったんです」
立ち上がったローリーは、その時、部屋の壁一面に飾られたスケッチに気づいた。そして、その素晴らしい出来栄えにしばし言葉を失った。この部屋に入るときに、足元に見つけたムクドリの絵ように、それらすべてが精密な鳥のミニチュアとでもいうべき完成度である。まるで本物の鳥が白い壁面に整列しているような印象さえ受ける。
「この素晴らしいスケッチを手掛けたのは一体、誰です?まるで本物だ。これほどの技量を持つ学者には今まであったことがありません」
マイアが顔を輝かせた。
「フランシス様です。窓に餌台があるんです。フランシス様はここにやってくる鳥を、その場で写し取ってしまうんですよ」
マイアは母のようにフランシスのぼさぼさの髪を撫でてやった。フランシスはマイアの腰にしがみついた。
「フランシスさんが、これを…」
スケッチに寄ってよく観察する。羽毛の細部に至るまで正確に描写されているにもかかわらず、全体的なバランスが整っている。驚くべきことは、下書きの類の補助線の跡が一切なく、それはおそらく鳥が餌台で羽を休めている間に一気に書き上げられたであろう、という事実である。
「天才だ」
ローリーはぽつりとつぶやいた。ローリーにとって、この不思議な異母兄との出会いが、今後どのような意味を持つのか。それはシステムの作用によっても、予測不可能な、人と人との心の交流なのである。