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第5話 母、ヤグリス

モンテス騎士団の栄えある団長は若く美しい女性である。その噂は、周辺の諸侯のみならずその領地内の貴族にも広がっていた。

騎士の兜をわきに抱え、南門から入場してくるヤグリス・グザール、モンテス公爵夫人。城内の召使い達は整列して、頭を下げた。

「おかえりなさいませ!ヤグリス騎士団長」

ヤグリスは午前の騎士の訓練を終えて、私室に入っていった。彼女の部屋は4つあり、そのうちの一つには騎士の鎧や武器、衣装などが収納してある。モンテス騎士団の分団長達を招いて、ここで会議をすることもある、広い部屋である。

ヤグリスは腰に帯びた剣をテーブルに置き、皮の鎧を脱ぐと、メイドがそれらをきれいに拭いて棚に収める。まとめた赤い髪を解くと、それは美しい流れとなり、腰まで落ちた。メイドが水の入ったコップを差し出すと、立て続けに二杯、うまそうに飲み干す。シャツを脱ぐと、しっとりと汗をおびた豊満な女体があらわになり、メイドがタオルでその身体を拭いていく。

「バスチオン!いるのだろう?入りなさい」

ヤグリスはよくとおる声で呼び掛けた。彼女はバスチオンの姿を認めたわけではない、が、老執事が時間に対しても厳粛げんしゅくであることを知っているのだ。バスチオンがすでに扉の外で控えていた。老執事もまた、ヤグリスが訓練から戻り、着替えの途中であることを知っている。

「バスチオン!」

ヤグリスの髪をまとめていたメイドが、びくりと身を震わせる。命令口調はわずかに怒気をはらんでいた。

「失礼いたします」

頭を下げたまま、老執事が入室してくる。黒いスーツを着こなし、足から指先、整った髪の先端まで折り目正しく、その姿勢は騎士礼式の見本のように正されている。一方のヤグリスはショーツに、肩にかけたタオルのみというあられもない恰好である。ヤグリスの美貌も相まって、これは男の感情を騒がせずには居られないような光景であるが、部屋には緊張感が漂っていた。

「楽にしなさい、バスチオン。あなたに少し、聞きたいことがあってね」

メイドはヤグリスのドレスを取りに、隣室に引き下がった。ヤグリスはコップに水を注ぐと、再び一気に飲み干した。モンテス城で唯一の女性騎士であり、歴史上初の女性団長は腕組みをしたまま、素肌を隠そうともしない。女の裸身、その肉体の美などは騎士の統率者、団長たるものにとって不必要といわんばかりに。よってバスチオンも顔色一つ変えずにヤグリスを見やった。

「まずは、礼を言っておきましょう。ローリーは無事に騎士となったわ。けれど、あれは母の安らぎを知らない。代わりにバスチオン、お前をしたっているわ」

「ありがたきお言葉にございます。ヤグリス様。しかし…」

取りなそうとするバスチオンを手でさえぎって、ヤグリスは続けた。

「あれは戦闘能力のない捕虜さえ殺すことが出来なかった。槍術、剣術、そして大弓の扱いに長けたあれがね。残念なことだわ」

ヤグリスに面と向かって、ローリーの失敗を語ることができるものは、この城内には皆無である。しかし、客観的に見れば、ローリーの態度は敵前逃亡寸前といった評価であり、場合によっては、騎士にとって命に係わる不名誉、臆病者ということになりかねなかった。

「あれには勇猛さが欠けている気がする。私の目指す騎士とは、馬上のお飾りなどでは断じてない」

ヤグリスはバスチオンの側面から近づいていく。

「モンテスの騎士は、いや、統率者においては戦場に立てば自ら騎士の規範とならねばならない」

バスチオンは気を付けから、やや足を開いて両手を前に組む楽な姿勢をとっているものの、微動だにせずに、なおも正面を見つめている。

「今後ますます、ブレイクは大きな戦闘に巻き込まれるでしょう」

猛禽もうきんのように鋭く美しい瞳は、バスチオンを近くから睨みつけた。

「教育責任者であるお前が、ローリーに敗北思想を植え付け、なんとする?」

バスチオンは微動だにしなかった。メイドが、ヤグリスの真紅のドレスを手に、もじもじと部屋の入り口で動いている。ヤグリスはそれに気づいて薄く笑った。かわいそうに、怖がらせてしまったようね。男には極めて当たりの強いヤグリスだが、女性には、たとえ格下の者であっても気遣きづかいを見せた。

「フリージア、どうしたの?おいで。着せておくれ」

ヤグリスが柔らかい声をかけると、ほっとしたようにメイドが2名入室し、着替えを手伝いはじめた。ドレスを身にまとったヤグリスは、先ほどと印象ががらりと変わって大輪の薔薇ばらのようである。匂い消しにローズマリーの油が用いられ、風と共に爽やかな香りが周囲に満ちた。若いメイドはモンテス夫人の成熟した美に見惚みほれた。

「ヤグリス様、きつくございませんか?」

「ありがとう。ドレスとは、時に鎧より重く感じるものね」

ヤグリスはこれから茶会に出席しなければならない。諸侯は出席しないものの、貴族の有力者が集まり同盟関係を確認する場でもある。ヤグリスはまっすぐな信仰と、騎士の掟を堅持していた。その一途さはローリーに引き継がれたようだが、政治的取引、根回しなど、社交の場で要求されるスキルを、ヤグリスは存分に発揮することが出来ずにいた。

「ヤグリス様、お忙しい身をお借りして恐縮でございます」

深々と礼をしてバスチオンが告げる。自分へのお叱りはもう切り上げて、茶会に急げと言わんばかりである。まただ、とヤグリスは思った。バスチオンのこの慇懃いんぎんな態度を崩そうと、今日はきつく当たってみたが、どうしてもこの男の真意が見えない。ローリーを手なずけて、どうしようというのか。

その一方で、不思議と、バスチオンから敵意のような悪感情はくみ取れない。バスチオンがローリーに向けるまなざしには、確かに愛情が感じられるのだ。この男の正体が未だよくわからない。だが、これはもしかしたら…嫉妬なのかもしれない。

ローリーは生まれてすぐに医師に取り上げられて、しばらく母から隔離されていた。その後も、ヤグリスはモンテスの親族から陰湿ないじめを受けて、わが子であるローリーと一緒に過ごすことが出来なかった。

たった一人で部屋に閉じこもり、わが子愛しさに気が狂いそうだった自分。そしてモンテス家を心の底から憎んでいた。ローリーを抱きしめたくても、できなかった。ローリーは私から離されて、代わりに教育係であるバスチオンを慕った。モンテスの女たちは跡継ぎを産まねば、その存在理由を失う。そんな因習を切り開くために、女の身でありながら実力で騎士団長まで上り詰めたのだ。そう、これは実力なのだ。私の。決して政治的配慮あってのことではない。私は、母は十分に務まらなかったかもしれない、しかし騎士としては最高位まで上り詰めたのだ。私は、馬上のお飾りなどでは、断じて…。

ハッと、ヤグリスが思考の迷路から戻ったとき、眼前にバスチオンの視線があった。ヤグリスは背筋に冷たいものを感じた。まるで悪魔に思考を読まれたかのような感覚。すました顔で、何気なさをつくろう。

「バスチオンよ。遅くなるから、後のことは頼みます」

微笑み、いつもの通りに深々と頭を下げるバスチオン。

「万事心得て御座います」

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